源義経の活躍めざましかった「源平合戦」のクライマックス

とても有名な「源平合戦」ですが、平氏と源氏が戦って最後、源氏が勝ったという流れは知っていても、細かい戦がどう連なっていったのかちゃんと記憶している人は少ないのではないでしょうか。今回の記事では、源平合戦のクライマックス倶利伽羅峠の戦い以降の流れをざっと時系列に並べてみました。
源平合戦

①②倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦い

倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いと篠原の戦いで、平氏を徹底的に破った木曽義仲はこの後、京へ上洛。

◆平氏は安徳天皇を伴って、西国へ落ち延びる。
◆後白河上皇は安徳天皇を廃し、その弟、後の後鳥羽天皇を三種の神器がないまま即位させた。

③水島の戦い

讃岐の屋島に拠点を構えていた平氏を追討するために、木曽義仲軍が攻撃したが、水上の戦いを得意とする平氏軍を落とすことができず壊滅させられた。

◆平氏は勢力を盛り返し、福原に拠点を構える。
◆この後、木曽義仲は後白河上皇と不和となる。

④法住寺合戦

後白河上皇の御所「法住寺殿」があった法住寺を木曽義仲が襲撃し、これを制圧。
後白河上皇と後鳥羽天皇を幽閉して、無理やり征夷大将軍となる。

⑤宇治川の戦い

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佐々木高綱と梶原景季による「宇治川の先陣争い」

木曽義仲軍 vs 源頼朝軍(範頼・義経)
義仲軍は、水島の戦いから軍の立て直しができておらず、
範頼軍が義仲軍の退路を塞いで、義経軍が宇治川で義仲軍と衝突。
義仲軍は敗北し、北陸への逃走を図るが宇治川上流の琵琶湖の南端で打ち取られる。(粟津の戦い)

⑥一ノ谷の戦い

ハイライト
義経軍の逆落とし

後白河上皇は平氏追討と三種の神器の奪還を源頼朝に命令した。

平氏 vs 源頼朝軍(範頼・義経)
一ノ谷に本拠を置く平氏を討伐するために、京から源頼朝軍が出立した。
範頼軍は正面から平氏を攻撃するがなかなか突破できず義経の率いる精鋭部隊が崖を駆け下り、背後から奇襲をかけ平氏軍は大混乱となり、総崩れとなり敗走した。

⑦屋島の戦い

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「扇の的」
休戦状態となると、義経軍の元に、平氏軍から小舟がやってきて、竿の先の扇を射ってみよと挑発。那須与一が見事これを打ち抜いた。

屋島に残る平氏を討伐するため範頼軍が派兵されたが、軍の統制がつかなくなり、全軍崩壊の危機に見舞われる。
京で治安維持の任務についていた義経が熊野水軍や伊予水軍等の有力水軍を味方につけながら参戦。少数の兵を連れて、渡辺津(大阪湾)から暴風の中船頭を脅して出航するが、兵の数が少なかったために膠着状態に陥る。梶原景時が大軍を引き連れて迫り、平氏が彦島(壇ノ浦の近く)まで後退した。

◆源義経は京にとどまっている間に後白河上皇に気に入られ昇殿を許される身分まで昇進している。(義経終わりの始まりフラグ)

⑧壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い
平氏 vs 源頼朝軍(範頼・義経)
立て直した範頼軍が九州に渡って、九州からの支援と退路を遮断し、平氏を彦島に孤立させる事に成功する。
壇ノ浦の戦いは、序盤海戦を得意としていた平氏が戦を有利に運んでいたが、潮目が急に変わって義経軍に有利になるや猛攻を仕掛けて、源頼朝軍が勝利を収める(※潮の潮流は戦の勝敗にはほぼ影響しなかったという見方もある)。平氏は次々に入水自殺。安徳天皇も三種の神器とともに沈んだが神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は回収できなかった。

安徳天皇の母親である建礼門院は水から引き揚げられて、一命を取り留める。

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