真田幸村は大坂冬の陣での、真田丸の戦闘(12月3日、4日)で大勝利を収めました。しかしこの後、徳川軍が真田丸へ大規模に攻撃を仕掛けることはありませんでした。12月9日より、徳川軍の大坂城への直接攻撃が本格的になります。徳川軍の各部隊が一生懸命塹壕を掘り進め大坂城の外堀まで12〜50メートルほどの距離まで近づいていました。豊臣側は接近する敵に激しく銃撃を仕掛けて大きな戦果をあげていましたが、徳川軍が塹壕を掘った土を盛って土塁、築山を築くと鉄砲での攻撃の成果は激減してしまいます。
大砲で本丸を攻撃
難攻不落の大坂城でしたが、本丸まで弾丸が届く大砲があれば、大坂城の中枢を直接攻撃する事ができます。緒戦で、西の木津川の砦、東の鴫野、今福の砦を幕府軍に奪われた大坂城は、大砲であれば本丸まで射程が届く状況となっていました。
家康は、堺の鉄砲鍛冶に鉄製の大砲の作成させ、さらに、イギリス、オランダから最新式の大砲を輸入していました。
- 和製の石火矢・大筒
- 西洋式の大砲:カルバリン砲 4門(最大射程距離6000メートル/有効射程距離1800メートル)[※1]
- 西洋式の大砲:セーカー砲 1門(最大射程距離3000メートル/有効射程距離500メートル)[※1]
- 西洋式の大砲:オランダ製 大砲12門
城の北からは本丸の奥御殿に向けて、南からは表御殿(千畳敷)へ向けて、各陣所から断続的に砲撃が打ち込まれ続けました。特に淀川に浮かぶ備前島と、玉造口(真田丸付近)あたりに陣取った井伊直孝・藤堂高虎・松平忠直らの陣所からの砲撃は激しかったと言われます[※2]。当時の大砲は命中精度も低く、鉄球を飛ばすだけで着弾の際に爆発はしないので、頑丈な建物の破壊はあまりできませんが、当たれば細い柱は折れるし、屋根を撃ち抜くくらいの威力はありました。大坂城本丸の建物に砲弾は命中し(数撃ちゃ当たる)淀の侍女に7〜8人に死者が出るに至ります。
徳川と豊臣の和睦
絶え間なく打ち込まれる大砲の発射音と被害に耐えられなくなった淀は徳川との和睦に応じる事となります。この和睦交渉に奔走するのが片桐且元(うちの地元の殿)です。ドラマでの活躍が楽しみですね!
出典
※1.千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』
※2.桐野作人『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』