1010年 初代共保が井戸より誕生

共保公出生の井戸
1010年というと平安時代真っ只中、翌年の1011年には紫式部の源氏物語が完成した年というとイメージがつきやすいでしょうか?この頃に井戸から生まれたという伝説が残る共保公ですがその出生に関して様々な伝説が残っています。
①井戸の側に捨てられていた赤子を和尚さんが拾って育て、その子は志津城主藤原備中守共資の養子となり、藤原共資(京都出身[※1])の娘と結婚して藤原共保を名乗った。②藤原共資が井戸の側に赤子を見つけて育て、後に娘と結婚させた。③当地に荘園の管理者として赴任した三宅好用がこの井戸の側に家を建て、その三代目の井端谷篤茂の娘が藤原共資に嫁いで、共保を生んだ。などがあります。そしてその藤原共保が井伊谷に入り、井伊氏を名乗ったとされています。
どれも伝説なので真偽のほどはわかりませんが、井伊谷の外から来た支配者が井伊谷生まれの共保をリーダーとして現地支配に組み込んだという流れが見て取れます。わざわざ地元の人間を組み込む必要があった事と外部の人間が井伊谷に興味を持っているということを考え合わせると、
- 井伊谷は押さえておきたい重要な土地である。
- 部外者が統治しにくいので、地元の人間を組み込んだ。
ということは、井伊谷は重要な街道が通る重要拠点で、気性が荒い難治の土地だったのか?もしかしたら、重要な資源でも採れたのか?などなぜ権力者が井伊谷を欲しがったのか、が気になり始めます。次の記事では当時の街道はどうなっていたのかを調べてみましょう。