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井伊直政築城の高崎城 市街地に残る土塁と堀をめぐる
高崎城散策1.高崎城址のランドマークといえば、お濠端通りと大手門通りの交差点付近にある、模擬石垣と移築櫓と移築門です。模擬石垣の上に据えられた乾櫓(県指定重要文化財)は元、本丸にあった4基の櫓
高崎城散策1.高崎城址のランドマークといえば、お濠端通りと大手門通りの交差点付近にある、模擬石垣と移築櫓と移築門です。模擬石垣の上に据えられた乾櫓(県指定重要文化財)は元、本丸にあった4基の櫓
最後の砦大平城大平城は井伊氏本城である三岳城の東を守る支城でした。築城年代は不明ですが、記録に登場するのは南北朝時代、井伊氏が北朝方と戦っていた頃となります。井伊家12代目当主井伊道政が南朝方
白塗り、お歯黒、蹴鞠大名だけど実は骨太大名の今川義元義元は家督相続争いを制し今川家の当主となります。抗争状態にあった武田氏と同盟を結んだことで、武田氏との抗争がひと段落したかと思ったら、それが盟友
家康の出鼻をくじく一向一揆井伊家の命運を握る、家康の動向について少し触れてみましょう。1560年の桶狭間の合戦以後、元康から家康に名を改め、今川から独立し織田信長と清洲同盟を締結した徳川家康は、当
桶狭間の後、松平元康 (徳川家康)は今川氏からしれっと独立し、旧領三河の平定に乗り出し、ついでに織田氏と同盟を結びます。井伊氏の所領がある遠江の強大な支配者であった今川氏は、瞬く間に力を失い、
三河と尾張の歴史をさらっと尾張では元々の支配者であった守護大名斯波氏の家臣であった織田弾正忠家が力を持ち始め、織田信定、織田信秀の二代に渡り領土を広げ三河方面へ侵攻していました。三河では、西三河の
千頭峯城はGoogle Mapに入力すると表示されるので、比較的たどり着きやすいです。摩訶耶寺から登山道が伸びていますが、車の方はもう少し山を登って、千頭峯トンネル手前のパーキングまで行くと、すぐ
武田氏北条氏の大躍進この頃の日本は勢力の新旧の入れ替わりが激しく、その中でも、武田信玄と北条氏康の躍進は目まぐるしいものでした。武田氏は甲斐、信濃を平定、木曽氏、小笠原氏の領土も飲み込み大躍進
戦国時代の幕開けと遠江の情勢今川家は鎌倉幕府倒幕の主勢力であった足利家の親族にあたる家柄で、斯波家や畠山家をはじめとする、他の足利一門とは別格の家柄でした。そして、井伊谷がある遠江は、鎌倉幕府が倒
1333年 鎌倉幕府が滅亡 今川氏(足利一門)が遠江の守護となる 1337年 北朝方の今川氏と南朝方の井伊氏が三方ヶ原で合戦。引き分け。 1338年 足利尊氏征夷大将軍となる 134
三岳城は井伊氏の本城にあたる城で、南北朝時代に井伊道政によって築かれたと伝わります。本城を囲み北の支城天山城(あてやまじょう)、東の支城大平城(おいだいらじょう)、西の支城千頭峯城(せんとうが