応仁の乱 西の砦であった船岡山城
船岡山城の歴史 船岡山は山名氏らが率いる西軍の砦とされましたが、翌1468年に東軍の浦上則宗の襲撃の受け落城しました。その後、細川氏三人の養子(細川澄之、細川澄元、細川高国)の家督争いに端を発した船岡山合戦(1511年) […]
日本のお城のレポートは主に現存の石垣とか空堀とか切り堀とか、、、ニッチな情報とともにお城&遺跡の現地説明会情報などを収集発信しています。
船岡山城の歴史 船岡山は山名氏らが率いる西軍の砦とされましたが、翌1468年に東軍の浦上則宗の襲撃の受け落城しました。その後、細川氏三人の養子(細川澄之、細川澄元、細川高国)の家督争いに端を発した船岡山合戦(1511年) […]
一益は城の南に位置する長昌寺に上野国の諸将を招き本格的な能を披露しました。それが記録に残る群馬県での最初の能興行と言われています。しかし織田信長が本能寺の変で暗殺されたために上野国は再び情勢不安となり、一益は伊勢に撤退し […]
利権がからむ戒壇(かいだん)の設置 奈良時代から平安時代は、正式に(国家資格を持つ)僧となるには戒壇で授戒する必要がありました。東大寺や国分寺などの官立寺院が僧を管理していましたが、822年以降官立寺院でない延暦寺にも戒 […]
当時の落首で「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほど名城となります。(まぁ、石田三成をディスってる訳ですけどね、、、) 1600年関ケ原の合戦時、佐和山城を守っていたのは父の正継、兄の正澄で東 […]
現在の二条城は歴代4代目で(初代から3代目については後述)、関ヶ原の合戦後の1603年に徳川家康が天皇に謁見する為の上洛時に滞在する宿泊施設として作られました。ここで、徳川家康が征夷大将軍として任命される将軍宣下の儀式が […]
注目のイベント Pick UP!! 東京文化財ウィークのイベントから主にお城や城下町に関連したイベントをピックアップしました。以下のイベントは全体のごく一部です、詳細は東京文化財ウィークオフィシャルページをご覧ください。 […]
1569年に武田信玄が北条領地に攻め込んできた時、武田氏の別動隊小山田信茂隊に三の丸まで攻め込まれてしまいます。落城は免れたものの、滝山城(比高約70m)の防御力が不足していると認識され、より標高の高い深沢山(比高約24 […]
大和朝廷はまだ支配下になかったエミシの土地(現在の東北地域)に勢力を伸ばすため、城柵を築いていきました。秋田城は、760年に設置され国府(地方行政府)が置かれていましたが、秋田城付近では度重なるエミシの反乱が起きていて、 […]
大友氏遺跡の中心施設である、大友氏館の発掘調査は現在も進行中で、これまでに、庭園跡、主殿と考えられる中心建物の遺構や高級陶磁器が発見されています。大友氏館は14世紀後半(南北朝時代)に整備され、16世紀後半大友宗麟と息子 […]
大友氏の栄枯盛衰 大友氏が大分府内の大友氏館(臼杵城から北西方面に約30キロ)から臼杵城に拠点を移したのは、1557~1561年(具体的に時期を断定する資料はない)とされています。大友氏館は地形的にも平たんな土地にあり、 […]
古城から新城(今の岸和田城)の場所にいつ移ったかはわかっていませんが、岸和田市のサイトによると、信濃氏の頃には、新城の二の丸の位置に城があったとあり、当時の主曲輪(現在の二の丸)には海が間近に迫っていて、辺りには葦原が広 […]
なぜ、名古屋城ができたのか 名古屋城の起源は16世紀の前半、今川義元の父、今川氏親が尾張制圧の足がかりとするため築いた「柳ノ丸」という城です。この「柳ノ丸」の城主は今川氏豊(今川氏親の子か?)で、織田信長の父、織田信秀は […]