真田丸、とうとう最終回!!
1615年5月7日徳川と豊臣の最終決戦の日となります。豊臣方は前日の道明寺付近で徳川軍を防ぐ事が叶わず、翌日大坂城の南側の天王寺口付近で徳川と対峙する事となります。
大活躍の毛利勝永
当時の戦は、明け方から開戦して夜には撤収するのが普通だったのですが、5月7日は両軍昼頃まで対峙したまま、開戦命令を待っていました。家康が秀頼の降伏を求めて交渉していたためとも言われていますが、長時間待たされていた本多忠朝の兵がたまりかねて、毛利勝永の前衛に向けて発砲しました。これをきっかけに両軍が戦闘状態になります。毛利勝永の部隊は、徳川の先鋒であった本多部隊と交戦し、ついに本多忠朝の首を取り、真田信之の息子の信吉部隊をも蹴散らします。毛利隊は次々に徳川の軍勢を撃破し徳川家康の本陣へと迫ります。
大野治房は秀忠の本陣へ急襲
岡山口付近では、徳川秀忠の直属の旗本の軍勢と豊臣勢両軍入り乱れての大混戦の中、大野治房は弟の治胤らを率いて秀忠の本陣を急襲します。秀忠の本陣は手薄でしたが、冬の陣では参戦を認められなかった、黒田長政と加藤嘉明が詰めていたため、秀忠の本陣は大野治房を辛うじて退けました。治房の部隊は大坂城へ敗走しました。
狙うは家康の首!幸村も動く!
真田幸村は茶臼山に陣を置いて、戦況を見ていましたが、毛利により混乱状態に陥った徳川勢を見て、大助に大坂城へ戻り、秀頼の出馬を願うよう命じます。幸村の部隊は松平忠直の部隊に突撃、後方にいた浅野長晟の寝返りの虚報を流し、徳川の部隊は大混乱に陥ります。幸村の部隊は家康の本陣に3度襲いかかり、家康の馬印は倒され家康は命からがら戦線を離脱します。徳川家康の元にいた騎馬クラスの近習は小栗又一たった一人しかいなかったという危機一髪っぷりでした。
さて、今回の大坂の陣の結末はどうなるのでしょうか?!楽しみですね〜!
出典
- ※1.千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』
- ※2.笠谷 和比古、黒田 慶一「豊臣大坂城: 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略」