NHK大河「真田丸ー第49話 前夜」決死の豊臣方 次々に玉砕!

大坂冬の陣が終結してからわずか3ヶ月程で和睦が破れ、豊臣家との再戦のため徳川家康と秀忠が京都に入ります。豊臣方は、防衛能力を失っている大坂城に籠城するわけにもいかず、迫る徳川勢に野戦を仕掛けることになります。

不発に終わった前哨戦

豊臣方は京都か奈良に展開して徳川勢を迎え撃つため、大野治房が、まず郡山城を落としましたが、徳川の大群が押し寄せるという報せを受けて、早々に撤退します。そして、徳川本隊よりも先に南の和歌山から進軍してきた、浅野長晟の軍隊を迎え撃つため、大野治房は貝塚に着陣し、塙団右衛門、岡部則綱、御宿政友、長岡正近、大野治胤が紀州街道を南へ進軍します。大野治胤は途中、徳川へ軍事協力をしている堺の街を焼き払ってしまいます。先鋒であった、塙団右衛門、岡部則綱が樫井で浅野軍と衝突し4時間の戦闘の末、塙は戦死、岡部は負傷し敗走します。報を聞いた治房が樫井に兵を差し向けましたが、浅野軍は撤退した後でした。治房は虚しく全軍を大坂城へ撤退させます。

大坂夏の陣

そして、豊臣勢は京都から進軍してくる徳川本隊を迎え撃つため、戦略を立てます。秀忠が「河内口」から、家康が「大和口」から進軍してくると読み、木村重成を「河内口」方面へ、後藤又兵衛を「大和口」方面への先鋒とし、豊臣の主力部隊を「大和口」へと配備します。ところが、不運にも、家康も秀忠も「河内口」から進軍してきたので、読み違いにより主力部隊の配備を誤るということになります。

河内口方面での戦い

豊臣方

  • 木村重成 6000(※1)
  • 長宗我部盛親、増田盛次 5300(※1)

徳川方(本隊)

  • 総勢5万5000(※1)

5月2日に、木村重成は徳川の本隊が河内口方面から進軍しているという情報を得て、部隊を再編成し、長宗我部盛親の手勢と徳川の先鋒を迎え撃ちます。先鋒であった、藤堂高虎、井伊直孝と交戦します。この戦で木村重成は戦死、長宗我部盛親は、藤堂隊に大打撃を食らわしますが、木村隊の壊滅により撤退します。

大和口方面での戦い

豊臣方

  • 後藤又兵衛 2800(※2)
  • 薄田兼相 400(※2)
  • 明石全登 2000(※2)
  • 真田信繁 3000(※2)
  • 毛利勝永 3000(※2)

徳川方

  • 水野勝成3800(※3)
  • 本田忠政5000(※3)
  • 松平忠明3800(※3)
  • 伊達政宗1万(※3)
  • 松平忠輝1万2000(※3)

大和口付近で野営しながら、情報収集をしていた後藤又兵衛は、後続部隊の到着を待たず、6日未明、単独で出発します。好陣地であった小松山に陣取り、徳川の部隊を迎撃します。徳川の部隊が次々と到着し、小松山を包囲。又兵衛は8時間に及ぶ激戦の末、被弾し動けなくなったため、やむなく部下が首を切り取り、敵方から隠します。又兵衛の残り兵は薄田兼相の部隊に合流し、徳川勢と交戦しますが、圧倒的な兵数の差で力尽きて薄田は戦死します。

豊臣勢は誉田(こんだ)方面へと退きます。11時ごろ真田幸村が到着、誉田で伊達政宗の部隊と対峙することとなります。政宗の部隊も幸村の部隊も鉄砲での武装比率が高く、両軍の戦いは激しい銃撃戦となります。伊達勢は幸村に道明寺付近まで押し戻されましたが、大野治長からの退却命令により、豊臣勢は大坂城へ退却します。この時、なぜか徳川勢は追撃しませんでした。

大坂夏の緒戦は豊臣勢は藤堂隊に大打撃を加えた以外、大きな戦果も挙げられず、後藤又兵衛、薄田兼相、木村重成、塙団右衛門を失い大損害を受けてしまいます。一旦大坂城に兵を退いて翌日、生き残った兵総勢5万で兵数三倍の徳川方に立ち向かう事となります。

関連リンク

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出典

  • ※1.大坂の陣 – Wikipedia
  • ※2.千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』
  • ※3.笠谷 和比古、黒田 慶一「豊臣大坂城: 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略」

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