NHK大河「真田丸ー第48話 引鉄」次の主戦場は大坂城の南側だ!

真田丸はこの回を入れて後3話、、、大阪夏の陣勃発前となりました。寂しいですね〜。大助まだ若いのに、、、など感慨深く見守っております。さて、大阪冬の陣で豊臣と徳川で結ばれた和睦により、家康は駿府へ秀忠は伏見へ引き上げ、一時期大坂城には平和がやってきます。冬の陣の後、解雇された牢人と豊臣方を見限る者が大坂城を去り、残りの牢人たちのほとんどが、すぐに戦が再開されることを見越して、大坂城に留まります[※2]。大坂城の兵力は約10万から約8万に減少しています[※1](それでも多いですよね)。そして、劇中、徳川と内通していた風の織田有楽斎は大坂城の人々と意見が合わず夏の陣を前に大坂城を退城します。

徳川方は停戦中も戦争準備を進め、豊臣方を再度討つ機会を狙っていました。京都府所司代板倉勝重から大坂で堀や塀の復旧や不穏な動きがあるという報を受けて(この噂を流したのは徳川方との見方もあります。)徳川方は牢人の解雇または秀頼の大和か伊勢への国替えを打診します。淀、大野治長は移封に応じるべきであると主張しましたが、秀頼がこれをはねつけ、徳川方の要求を拒絶。大坂夏の陣の開戦となります。

徳川を迎え撃つための秀頼の戦略

大坂夏の陣

堀を埋め立てられて、裸城となった大坂城でしたが、北側には天然の要害である淀川水系があり、敵はやはり南側に主力を置いてくるだろうと予測されていました。秀頼は、戦場になると見込まれる大坂城南側の「茶臼山(冬の陣では家康の陣)」「岡山(冬の陣では秀忠の陣)」「四天王寺」「阿倍野」「住吉」を実地検分します。秀頼の行列は先鋒に後藤又兵衛と木村重成、兜持ちは毛利勝永、絢爛豪華な秀頼の本隊、後衛に長宗我部盛親と真田幸村、しんがりに大野治房を従え[※3]て行われました。敗戦色濃い夏の陣の前に戦意高揚にも一役かったかもしれません。

この時、大坂城の本丸は大野治長が守り、城の守備は豊臣家の家臣団に担当させています。次の戦では、城の守衛は豊臣家家臣団、野戦は牢人衆であると各部隊の役割のすみ分けをここで明示し[※3]、後の内部紛争になり兼ねない両者の役割を明確にします。戦の経験も無くまだ若い秀頼が、1回の戦の経験だけで、この政治力を発揮するとは、秀頼、長生きしていたら、やばい武将になっていたのは間違いなさそうです。

出典

  • ※1.大坂の陣 – Wikipedia
  • ※2.千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』
  • ※3.笠谷 和比古、黒田 慶一「豊臣大坂城: 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略」

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