豊臣と徳川の戦が迫っている時、豊臣勢では徳川とどう戦うかの議論がなされていました。後藤又兵衛、真田幸村は積極的に城外に打って出る、積極路線を主張します。幸村は「関東と関西を分断し、城外の戦にて勝利を重ね、朝廷を味方につけつつ、長期戦に持ち込む」という戦略を主張したとされますが、豊臣方の首脳部は巨大で難攻不落である大坂城に籠城する事に決します。
ここで、幸村は大坂城惣構えの外に出城(真田丸)を築く事にします。後藤又兵衛も同じ考えを持っていて、建築材料を用意していたと言われています。従来まで、真田丸出城は、大坂城の弱点を補うために作られたと考えられていましたが、最近の研究結果に基づいた新説によると、真田丸は敵の注意を一身に受け、逃げ場の用意されていない死地の様な出城であったと考えられています。
真田丸の構造
真田丸は大きな丸馬出しの形の本曲輪と、大坂城寄りの場所に小さな丸曲輪がありました。丸曲輪は、惣構えと出城を結ぶ通路を守る役割を担っていたと考えられています。そして、本曲輪の周囲には深い谷があり、東西に通路があったと考えられています。出城に迫る徳川の兵を四方から攻撃できるように設計されていました。
真田丸の周りは渓谷だったの?現地を歩くとその高低差が想像以上だった!
大坂城の水路を守る砦
長期の籠城を予定していた豊臣方は、水軍により、食糧や武器の輸送に欠かせない、水路を守らせる事にします。この水路の要となる、大坂城の西側の「木津川口の砦」、船庫を守るため「上福島の砦」「下福島の砦」、木津川の中州にある「博労淵(ばくろうぶち)の砦」とそれに連携する「土佐座の砦」「阿波座の砦」、大坂城の東の「鴫野(しぎの)の砦」と大和川を挟んだ対岸に「今福の砦」を配置し、各所に兵を配置し、指揮官に有力武将を配置し、徳川を迎え討ちます。