NHK大河「真田丸ー第30話  黄昏 」秀頼の行く末が心配でしかたがない秀吉が行った政策

29話では、忍び寄る老いと死におびえる秀吉が描かれていましたが、その中で、徳川家康を呼び出して、二度同じ事を命じるシーンがありました。徳川家康を中心とする大名の合議で秀頼を補佐するという命令でしたが、これは一体どういう事なのでしょうか。

秀頼を補佐する予定だった五大老・五奉行

関白秀次が亡くなってしまった後、豊臣政権には嫡男秀頼が大人になるまで、政権を運営できる人材がいませんでした。そこで、大名と奉行の合議で政権運営をする五大老・五奉行制度が考え出されました。有力大名であった、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景(秀吉の死の前に病没したので人数に入らず)の5大名と有能な事務官であった浅野長政(筆頭)、前田玄以(次席)、石田三成、増田長盛、長束正家の5奉行に豊臣政権の政治を任せるというものでした。秀吉の死後に豊臣家をおびやかす可能性の高かった徳川家康を政治システムの中に取り込み、秀吉がより信頼を置く前田利家によって牽制させるもくろみでした。

五大老制度は速攻崩壊

大坂城西の丸天守閣秀吉の遺命により、前田利家は大坂城にて秀頼のお守役、徳川家康は伏見城にて政務をとっていましたが、前田利家は秀吉の死後わずか8か月で病死します。利家の嫡男利長が跡を継ぎますが、徳川家康の圧力に屈します。徳川家康は、他の大老を帰国させ徳川以外の軍勢がいなくなった大坂城を抑えてしまいます。そして、二つ目の天守閣なんぞ建てたりして豊臣政権の権力を掌握してしまいます。

五大老制度は妙案だったと思いますが、力で生きてきた戦国武将がおとなしくしている訳がないですよね。この後、徳川家康に反感を持つ勢力の反発が関ヶ原の合戦へと発展します。

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