北条に沼田城、真田に名胡桃城という裁定が下ったかと思いきや、すぐに名胡桃城が北条方の武将に奪取され、秀吉が小田原征伐へ動く急展開の真田丸です。23話のメインとなる天正18年の小田原征伐の各軍の動きを地図にしてみましたよ。
3月下旬、豊臣主力軍(豊臣秀次、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、石田三成、大谷吉継、黒田官兵衛、直江兼続他)のうち豊臣秀次勢、徳川家康勢ら約70,000が山中城を攻撃します。北条氏にとって、非常に重要な防衛線であった山中城は数時間で落とされ、同日鷹之巣城も落城、翌日に足柄城が陥落します。この先鋒部隊は4月3日に小田原に到着します。織田信雄勢約5,000は、もう一つの重要な防衛線であった韮山城を攻撃しますが、包囲戦になって長引いたために、信雄本隊は先に小田原へ向かいます。
4月上旬、水軍(九鬼嘉隆、長宗我部元親他)約10,000は下田城を攻撃します。伊豆水軍を撃破して、小田原沖へ展開します。
4月6日から小田原城を包囲していた、主力軍から編成された部隊が、玉縄城、江戸城を落とします。二手に分かれて、一方は、小金城、臼井城、本佐倉城を、もう一方は、川越城と岩槻城を落城させます。5月下旬、石田三成、大谷吉継、直江兼続、真田信繁らの部隊は、館林城を攻撃し落とします、次に忍城を攻めますが小田原城が降伏するまで持ちこたえます。
3月下旬、関東の北側からは、北国勢、信州勢(上杉景勝、前田利家、真田昌幸他)約35,000が松井田城、箕輪城、厩橋城(前橋城)を落とし、5月中旬には鉢形城、6月下旬には八王子城も陥落、北国、信州勢は小田原へ向かいます。
秀吉は、小田原城の笠懸山に本格的な石垣のお城である石垣山城(一夜城)を猛スピードで建築します。7月5日北条氏直が降伏し、小田原城が開城します。松田憲秀、北条氏政、北条氏照、大道寺政繁は切腹を命じられました。当時、北条の当主であった北条氏直は高野山へ蟄居させられます。
北条氏としては、箱根の山を防衛線として、足柄城、山中城、韮山城を配備して秀吉本隊をせき止め、万が一突破されても小田原城で籠城して徹底交戦くらいの予定だったのでしょうか。かたや秀吉は、本隊の他に、北から、海から、大群で押し寄せてきたのですから、たまったものではありませんね。北条氏直は、小田原征伐の翌年、高野山で数え30歳で病死してしまいます。嫡男がいなかったので、氏直の叔父である氏規が家督を継ぎます。北条氏は後に許されて、大阪の河内国狭山で7,000石拝領し、子どもの氏盛の代(約10年後)には1万1,000石の大名となり、河内狭山藩を立藩します。関東の北条さんは、大阪の北条さんになっていたんですね〜。