天正10年(1582年)10月末、真田昌幸が北条を裏切り、せっかく徳川についたのに、この両家が手を組んでしまいました。これから、この両家が真田昌幸に煮え湯を飲まされ続けるわけですが、この時はただの国衆として軽視していたのでしょうね。そして、講和により徳川の当面の敵は上杉に絞られ、翌年4月には、真田の領地に新たに対上杉の備えとする城を建設する事になります。上田城と名付けられるこの城は、徳川家康の全面的な支援(資金、物資、人材)を受け、真田昌幸が千曲川支流にある尼が淵(海士淵)に築城します。
徳川 vs 豊臣の対立は各地に飛び火
上田城建設スタートと同じ頃、西では豊臣秀吉が柴田勝家を破り(賤ヶ岳の戦い)、織田家の勢力を継承します。しかしこれを良しとしない、織田信長の次男信雄は、徳川家康と組んで豊臣秀吉と対立します。この対立は小牧・長久手の戦い(天正12年3〜11月頃)に発展、戦はこう着状態となり、両者は外部勢力を取り込む外交戦へと発展していきます。家康は、北条の援助がいよいよ必要となって、両家の懸案となっていた、沼田の割譲を進めようとします。
したたかに大名を翻弄する昌幸
家康が秀吉ともめている間、真田昌幸は大名化への動きを見せて行きます。信濃の室賀領を攻めて支配し室賀氏は真田の配下となります。これに不満を持っていた室賀氏を利用して徳川は沼田の引き渡しを拒否する真田昌幸の暗殺を計画します。ところが、室賀氏の計画は昌幸に筒抜けで、逆に昌幸に殺されてしまいます(黙れ!小童ぁあああ!!が聞けなくなるの?)。天正13年7月、昌幸は徳川を裏切り、上杉へ寝返り信繁を人質として送ります。激怒した徳川家康は大軍で上田城を攻める事になります。