今回は、北条が上杉と交戦中ということで徳川が動き始めます。武田の滅亡後も関東甲信越は常に三つ巴の権力構造を維持するのですね〜。
上杉と講和し、北条は徳川と衝突
調略した海津城の春日信達が処刑された事で上杉との戦をあきらめた北条氏直軍は、信濃の分割統治で上杉と和睦し、7月19日に川中島から撤退します。同じ頃、徳川の先陣が諏訪頼忠の高島城を攻めますが諏訪氏の援軍要請を受け北条氏直軍が南下したため、徳川の先陣は兵を引いて若神子城で北条軍と対峙します。軍勢の数は諸説あるようですが、徳川は1万、北条は4万で数の上では北条軍の圧倒的優位でした。
北条の敗北で、形勢逆転
徳川軍の背後を突くべく北条氏忠(氏直の叔父)が進軍、黒駒で徳川軍と合戦になりますが徳川軍の勝利となります。この黒駒の敗戦を機に北条軍の士気は下がり、有力な国衆が立て続けに徳川に寝返ります。
徳川家康から木曾、安曇、筑摩の安堵を約束された木曾義昌は信濃国衆の人質を引き渡し8月下旬徳川に寝返ります。そして、徳川方として旧武田家臣の調略に動いていた依田信蕃(よだのぶしげ)の説得により、真田昌幸も9月中旬、徳川に寝返ります。沼田城は一度北条に奪われますが真田軍が奪還し、支城を落とされながらも沼田城を守り抜きます。信濃に強い影響力を持つ2人の国衆を味方につけたことで、信濃での戦は徳川にとって有利に運びます。
北条の大軍は補給を断たれ意気消沈
真田昌幸は北条軍の補給ルートである碓氷峠を攻め、依田信蕃は補給部隊へゲリラ攻撃をしかけます。これにより北条の大軍は補給が困難になります。10月29日、冬も差し迫った事で、北条は徳川と講和し若神子の戦いは終結します。
北条はどうしても沼田が欲しい
北条が上野(こうずけ)、徳川が信濃、甲斐ということで講和をします。上野は真田昌幸の岩櫃城・沼田城も含まれるため、昌幸にとっては厳しいものでした。しかしながら、北条、徳川間でごちゃごちゃが続き沼田割譲は進まず、しばらくは真田昌幸が沼田城の支配を継続します。この後、昌幸は、徳川の資金援助により、対上杉の最前線となる場所に上田城を築城する事になります。