前回の「真田丸」では、真田昌幸が「岩櫃城」と「沼田城」を織田の滝川一益に差し出す事になりました。領地を結構削られますが、まずは生き残れたと安堵したのもつかの間、本能寺の変がありました。みなさん、「早っ!」と思ったのではないでしょうか?本能寺の変は諏訪の信長の謁見から2ヶ月後の6月2日に発生しています。この時、徳川家康様ご一行は、のんきに堺見物を楽しんでいたので、絶体絶命の状況でした。
徳川家康の伊賀越え
徳川家康は穴山梅雪と少数の供回りと一緒に大阪の堺見物をしていました。「本能寺の変」の一報を受けた家康は万事休すと、京都の知恩院で自刃しようと言いますが、側近に説得されて脱出する事にします。一行はこの窮地をどうやって切り抜けるかを考え、明智方の息がかかった土地を極力通らないルートで岡崎城へ戻ることにします。この難所を乗り越えるために欠かせない働きをしたと言われているのが、服部半蔵と伊賀、甲賀忍者だと言われています。信長に近い立場にいた家康ですから、命を狙われる危険も非常に高かったと思われます。穴山梅雪は家康と別行動を取る事にします。穴山殿はどうなるんでしょうね?
織田信長横死後の勢力図
旧武田の領地の国衆のみなさんは、信長が本当に死んでしまったのか生き残ったのか確証が無かったので、しばらくおとなしく滝川一益の支配を受け入れます。とはいえ、周りを囲む巨大勢力の圧力は日に日に増していた状況でした。
北条は上野支配へ動く
北条は上野(こうずけ)へ侵攻。滝川勢(真田家はこちら)と埼玉県上里町の神流川周辺で衝突します。戦国時代の関東地方において最大と言われる、神流川の戦い(かんながわのたたかい)です。この戦で滝川一益が敗走し、北条氏は厩橋城を奪還します。
上杉は川中島を支配
織田勢の森長可(もり ながよし)は海津城主として川中島の4郡を治めていましたが、本能寺の変の後自国へ逃亡します。これに乗じて上杉が海津城を奪還、川中島を支配下に置きます。さらに南下の姿勢を見せる上杉の動きを受けたため、真田家を含む小県(ちいさがた)や佐久の国衆は北条の支配を受け入れます。
徳川も甲斐、信濃へ武田旧臣を送り込み調略を開始
堺から無事帰還した徳川家康は、匿っていた武田旧臣の依田 信蕃(よだ のぶしげ)を小県、佐久へ送り込み、同じく武田旧臣で家康と幼なじみの岡部 正綱(おかべ まさつな)を甲斐へ派遣し、武田家遺臣の取り込みに動き始めます。
各勢力入り乱れているのでぐちゃぐちゃです。
だから、沼田城は渡さないんだよ!
真田昌幸は、信長の要求には素直に沼田城を引き渡していましたが、この後、「沼田城」に固執し和睦の条件としても受け入れません。この昌幸の姿勢が今後各勢力との衝突の要因となっていきます。徳川、上杉、北条の三勢力が旧武田領を巡り戦、調略、同盟などを繰り広げます。その中で、真田昌幸はどう生き抜いて行くのでしょうか。戦の映像化も楽しみです次回も見逃せませんね!