白塗り、お歯黒、蹴鞠大名だけど実は骨太大名の今川義元
義元は家督相続争いを制し今川家の当主となります。抗争状態にあった武田氏と同盟を結んだことで、武田氏との抗争がひと段落したかと思ったら、それが盟友であった北条氏の機嫌を損ない北条氏と抗争状態になります。天文23年(1554年)にようやく、武田氏、北条氏、今川氏間の3家で婚姻関係を結び三国同盟を締結します。波乱含みのスタートでしたが、これでようやく、本腰を入れて、領土を西へ拡大することができることとなり、三河、尾張へ向け侵攻を開始します。「おんな城主直虎」で描かれていた、氏親が定めた法律「今川仮名目録」(編纂に寿桂尼も関わったと考えられています。)に書き加え、室町幕府が定めた「守護使不入地の廃止」を宣言し、室町幕府の特権を否定します。室町幕府から任命された守護大名であった今川氏が、幕府から独立し自らの力で両国を支配する戦国大名であると明確に意思表示したことになります。
寿桂尼の終焉が今川氏の終焉だった
永禄元年(1558年)義元は息子の氏真に家督を譲り、三河の運営と西への侵攻へ集中しはじめます。問題も解決して、イケイケムードだった今川氏は桶狭間の合戦で、余裕で勝てるはずだった織田信長の奇襲を受けて、義元は戦死、大敗北を喫した事を機に、没落への道に滑り落ちはじめます。しかし、今川氏は一時危機的な状況に陥ったものの、持ち直します。やはり寿桂尼が舵取りをしていたおかげでしょうか。氏親、氏輝、義元、氏真の4代に渡り今川家を支えてきた寿桂尼がついに、永禄11年(1568年)に帰らぬ人となります。彼女の死をきっかけに武田氏との同盟関係は手切れとなり、武田氏は今川領へ侵攻し始めます。氏真は遠江に亡命し徳川家康に降伏。戦国大名としての今川氏は滅びます。
武田氏が今川領へ侵攻を始めた事で、直虎の井伊谷も戦乱に巻き込まれていく事となり、井伊家はさらなる苦難の時代へと突入する事となります。