家康の出鼻をくじく一向一揆
井伊家の命運を握る、家康の動向について少し触れてみましょう。1560年の桶狭間の合戦以後、元康から家康に名を改め、今川から独立し織田信長と清洲同盟を締結した徳川家康は、当初順調に三河の平定を進めていきます。ところが、家康の一方的な支配に対して一向宗徒が反発し始めます。しかも、家康の一部の家臣も呼応して、一向宗側に付き、家康は窮地に立たされることとなります。
一向一揆に呼応した家臣の城
占部城、六名城、大草城、荒川城、西尾城、東条城
家康の本城である岡崎城をぐるりと囲まれる格好となり、凄まじいピンチ状態だったことが想像できます。
家康は半年ほど一向一揆の鎮圧に手を焼きますが、1564年の馬頭原合戦で、一向宗を退け家康が優位に立ち、一向宗を鎮圧することに成功します。この後、19年間三河では本願寺派禁制となり、一向宗の寺院には厳しい処置が取られましたが、一向一揆に呼応した家臣には寛大な措置が取られ、ほとんどの家臣が帰参しました。
直虎が、領主に就任した1565年の井伊家周辺の情勢は非常に不安定で、人材もお金もない井伊家が戦国の世を生き残れるか否かは時代の風向き次第という、心許ない状況でした。そんなおり但馬守が井伊家専横の動きを見せはじめます。
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