三河と尾張の歴史をさらっと
尾張では元々の支配者であった守護大名斯波氏の家臣であった織田弾正忠家が力を持ち始め、織田信定、織田信秀の二代に渡り領土を広げ三河方面へ侵攻していました。三河では、西三河の国衆であった松平氏が、当主が相次いで横死したことで弱体化し、今川氏に取り込まれます。そのため、嫡男の松平元康(徳川家康)が今川氏の館で人質として生活しているわけです。
押しつ押されつの織田、今川の攻防戦
織田信秀は松平氏の弱体化に付け入り、1540年西三河の重要拠点であった安祥城(あんしょうじょう)を攻略、1542年には織田氏が松平氏の領地三河国額田郡小豆坂に攻め込み、今川氏・松平氏連合軍と交戦し織田氏が勝利します(第一次小豆坂の戦い)。三河覇権争いは当初織田氏が優勢でしたが、1548年に起こった第二次小豆坂の戦いでは今川氏が勝利します。その翌年には今川氏が安祥城も攻略し、織田氏は三河侵攻の拠点であった城を失います。
今川氏に支配されていく伊勢湾海域
1551年に織田信秀が死去、織田信長と弟織田信行の間で内紛が起こります。この動揺によって、織田氏配下にあった国衆の離反が相次ぎます。山口氏が今川氏に寝返った事で、鳴海城、大高城、沓掛城が今川氏の支配下となました。さらに、蟹江城も今川方に攻略され、織田氏は伊勢湾東岸の海運を今川氏に抑えられることになり、重要な収入源であった商業港である津島を失いかねない危機的な状況でした。
織田信長の反撃
1554年には織田氏は今川方の村木砦を攻略し、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断し今川氏に対抗しました。
最終決戦桶狭間の戦いへ
1560年6月5日に今川義元は大軍を率いて尾張へ向かいました。6月12日には松平元康(徳川家康)と朝比奈泰朝は織田方の丸根砦、鷲津砦を攻撃、織田方は激しく抵抗しましたが両砦は陥落しました。織田信長は熱田神宮で戦勝祈願を行った後、2,000から3,000の兵を率いて善照寺砦に入ました。そこで、今川本隊2万が桶狭間方面へ向かったのを察知し、2,000の兵を率いて桶狭間へ向かいました。この戦には井伊直虎の父親である井伊直盛も参戦しています、この後直盛と井伊氏の運命と、今川邸で大切に育てられていた松平元康の運命も激変していくこととなります。
出典
- 津島街道 起点から旧甚目寺町(戦国時代の伊勢湾の海岸線を掲載されています)
- 小豆坂の戦い-wiki
- 桶狭間の戦い-wiki