戦国時代の幕開けと遠江の情勢
今川家は鎌倉幕府倒幕の主勢力であった足利家の親族にあたる家柄で、斯波家や畠山家をはじめとする、他の足利一門とは別格の家柄でした。そして、井伊谷がある遠江は、鎌倉幕府が倒された後今川氏が守護職を相伝し支配していたのですが今川了俊が失脚し、1419年以降は斯波氏が遠江の守護職を務めていました。1467年に応仁の乱が京都で起こり、戦乱の火の手は全国に波及します。応仁の乱がきっかけとなって、世は戦国時代へと突入していきます。
遠江では斯波氏と今川氏が遠江の支配権をめぐって対立し、地元の豪族を巻き込んでの覇権争いが勃発していました。斯波方の重要人物であった曳馬城(現在の浜松城)主の大河内貞綱が今川氏と曳馬城で戦い、これに呼応した井伊氏が三岳城に籠り今川氏と事を構えましたが、1517年大河内氏が今川氏に敗北し、これをもって遠江の支配者は今川氏となります。詳細は不明ですが、井伊氏もどこかの段階で今川氏に敗戦し、今川氏の配下に下ります。当時の当主は20代当主井伊直平、井伊直虎のひいお爺さんです(南渓和尚のお父さん)。
今川氏が遠江の支配者となった頃の勢力図
この頃の遠江周辺は、徐々に勢いを増している新興勢力が存在し、守護大名は戦国大名へ変化し、その変化がうまくいかない大名は徐々に力を失いつつある情勢でした。今川氏の周辺では後北条氏は同盟関係であるものの、急激に領地を広げ、力をつけていました。北側の武田氏とは小競り合いを続けていましたが和睦。こちらも警戒が必要な状況でした。そして、井伊谷の西側では、まだ小さい領土しか持っていなかった徳川家康の祖父松平清康が三河で勢力を拡大、織田氏が尾張の支配圏を斯波氏から奪い実権を握りました。
「おんな城主直虎」では井伊氏目線で描かれるので、敵役となる今川氏ですが、状況を俯瞰してみれば、南北朝時代から事あるごとに今川と衝突して来た井伊家が、配下に下ったとは言え不穏分子である事に違いなく、寝首を掻かれないよう常に警戒しなければならない家臣でした。何かあれば容赦無く処断するのは当然と言えます。次回の記事では、ようやく直虎の時代に追い付きそうですね。