桓武天皇を本気にさせた?蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)がゲリラ戦で国家権力を翻弄し戦い続けた!(古代東北 城柵その2)

三十八年戦争の討伐中心地は蝦夷の本拠地であった胆沢(いさわ)地方

桓武天皇774-811年までの朝廷と蝦夷との戦は「三十八年戦争」と呼ばれます。初期の頃、蝦夷の反乱は単発的に起こっては征討軍により収束するという状況にありました、この頃から胆沢地方が蝦夷の本拠地と認識されるようになります。781年の桓武天皇の即位後、蝦夷の地域の支配をより一層強めるために、数多くの城柵が建設されていきます。桓武天皇は現状維持ではなく、征夷に積極的で、北へ支配地域を広げるため征夷軍を胆沢の地に派遣します。

阿弖流為に大敗北を喫した第一次征討争

阿弖流為
蝦夷のリーダー阿弖流為

桓武天皇は、788年に4000人の征夷軍を胆沢の地に派遣しますが、蝦夷のリーダーであった阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷のゲリラ部隊の陽動作戦に乗せられ、敵地に深く乗り込んだ後、本攻撃を加えられます。戦死者25人、溺死者1036人、負傷者245人と甚大な被害を出し惨敗を喫します。この後、阿弖流為が頑強に抵抗を続け、長期にわたり朝廷軍を苦しめる事となります。

本気を出した桓武天皇が任命した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

田村麻呂天皇の命を受けた軍隊が敗戦した事で体面を傷つけられた桓武天皇は、第一次征討の失敗を踏まえ第二次征討の準備を始めます。次の征討は必ず勝つ必要がありました。軍糧の輸送が滞らないよう体制を整え、有名無実な人材ではなく、現場指揮官としての能力での人選をします。

征夷将軍は後方で統括

  • 大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)

現場指揮官は副将軍(副使)4名で

  • 百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ):左遷されていたが数々の蝦夷討伐の経験者であるため復権。鎮守将軍に復職。
  • 多治比浜成(たじひのはまなり):惨敗であった第一次征討に参加。唯一蝦夷の軍を打ち払って敵地へ侵攻した功績をもつ。陸奥按察使兼陸奥守。
  • 巨勢野足(こせののたり):陸奥鎮守副将軍。
  • 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ):34才最年少の副使。天皇の身辺を護る近衛少将で天皇の信任が特に厚かった。

この征夷は事実上、副将軍であった田村麻呂が主導した遠征であったと言われています。第一次征討の後から、強化されてきた北方の蝦夷の調略が功を奏し胆沢公阿奴志己(いさわのきみあぬしこ)と、爾散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)が服属の意を表し降伏します。

平安京遷都のタイミングは、征夷軍の戦勝報告に合わせたものだった
都では桓武天皇の近しい人が次々に亡くなるなどし、長岡京は祟られているという事になります。天皇は平安京への遷都を決めます。ただ、祟られているから遷都というとちょっと、弱気なイメージがありますよね。そこで、北の賊地の悪いやつを討伐して、新しい国をスタートする「奇跡の桓武天皇」というイメージに持っていくため、征夷軍の戦勝報告が近いタイミングで794年10月22日に長岡京から平安京に移ります。6日後、征夷大将軍大伴弟麻呂が戦勝報告をもたらします。桓武天皇は征夷大将軍の派遣と遷都のタイミングを意図的に合わせ、征夷大将軍の戦勝報告をもって遷都の正当性を演出しました。

戦に勝ったと主張したって阿弖流為まだ倒してませんよね?

胆沢城戦勝報告と言っても、現場の問題はまだまだ解決していません。阿弖流為はまだ降伏していないので、さらなる征夷が実行されます。征夷大将軍であった大伴弟麻呂は老齢のため退位、新たな征夷大将軍に任命されたのは、坂上田村麻呂でした。第三次征討によって胆沢(いさわ)、志波(しわ)の蝦夷はほぼ制圧され、胆沢の地に新たに胆沢城が建設され始めました。蝦夷の本拠地に朝廷が城を建設するという地元の蝦夷にとっては絶望的な状況下、阿弖流為と相棒の母礼(もれ)が降伏します。阿弖流為が最初に朝廷軍を撃退してから13年、律令国家を苦しめ互角に戦った蝦夷の勇者の降伏は非常に大きな出来事でした。田村麻呂は朝廷に阿弖流為と母礼の助命嘆願をしましたが、味方についたはずの蝦夷の度重なる裏切りに煮え湯を飲まされ続けてきた朝廷側には受け入れられず、二人は現在の大阪にて処刑されます。処刑場所は日本略記に「河内国杜山」と書かれていますが、場所が特定されていません。「杜山」ではなく「牡山」⇨「男山」(おとこやま)ではないかという説が浮上しています。男山は生駒山地の北端部でここは南海道という大通りにあたります。阿弖流為と母礼は国家の反逆者ということで、大衆の面前で公開処刑された可能性も示唆されています。

東北最大級の志波城と払田柵の造営

胆沢、志波を制圧した後、朝廷はさらに支配を北に拡大する意向を持って、志波城(しわじょう)と払田柵(ほったのさく)を造営します。同時期に秋田城も大改修しています。田村麻呂を征夷大将軍とする、第四次征討計画が進められていましたが、国家財政の困窮と主に坂東地方の民衆の疲弊を理由に中止されます。中止の決定後、桓武天皇は70歳で崩御し、田村麻呂も病により政務を取ることは困難になりました。新たに、征夷大将軍任命されたのは田村麻呂の腹心の部下であった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)です。この頃の征夷の物資や兵の供給はすべて、陸奥と出羽から行われるようになります。大規模な征夷ができない中で、いまだ不安定な情勢にあった北方の蝦夷の沈静化のため、幾度か征夷が行われますが、朝廷は現状維持に方向転換し、志波城から南に約10キロ後退させた場所に徳丹城(とくたんじょう)を造営し、払田柵も縮小されます。三十八年戦争は一応の終焉を迎えますが、蝦夷の反乱や移民と蝦夷の騒乱は9世紀を通して起こり続けます。

東北城柵地図

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