かめばかむ程味が出るスルメのような味わいの東北城柵。坂上田村麻呂がブラピのルックスだったら城柵に興味もてそう?(古代東北 城柵その1)

東北城柵(とうほくじょうさく)と言われても、聞いた事無いし興味も持てないと思われてしまうかもしれませんが、これがまためちゃくちゃ面白い歴史てんこもりなのです。しかしながら、この面白さが伝わりにくいのが難点なんです。どうしたものかと考えていたら、古代東北時代の英雄坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の容姿に言及した記述が「田邑麻呂伝記」「日本後記」にあり、それをまとめてみるとこんな感じになりました。

「目は鷹のようで、顔は赤く、ひげは金髪。身長は176センチ(五尺八寸)、胸の厚さ37センチ(一尺二寸)」

白人っぽい容姿ですよね。シルクロードでは多様な人種の往来があって混血児も沢山いたでしょうから、渡来人が沢山いた当時の王朝の貴族であった田村麻呂が白人っぽいルックスでも何も不自然ではないです。せっかくなので、田村麻呂がブラピっぽいルックスだとどうでしょうか?ということで、描いてみる事にしました。

田村麻呂

6世紀ごろの蝦夷の地域かっこいい田村麻呂は後の登場になりますが、まずは話を本線に戻して、古代東北の社会について説明してみましょう。6世紀ごろになると、前方後円墳などの古墳を造営していた豪族が没落し、仙台平野以北、新潟平野は中央権力から切り離された地域となっていきます。この地域に住む人々は蝦夷(えみし)と呼ばれていました。蝦夷についてはいまだ、謎が多く残っていますが、神話の時代の神武天皇が近畿地方にいた先住民であった「愛瀰詩(えみし)」を滅ぼしたという記述が神武東征記にあります。この愛瀰詩(えみし)と同一の民族であったかは定かではありませんが、5世紀ごろには「蝦夷(えみし)」が関東地方から北に住んでいました。エミシとは、単一の民族ではなく、朝廷に従わない人々の総称であった可能性もあります。一部はアイヌ民族につながると考えられています。

重要な交易拠点があった蝦夷の港

当時、大陸からの交易船は陸伝いにしか航行できず、交易船は北から陸を伝って現在の北海道から東北の日本海側に来航していたと考えられています。658年には、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が顎田(あぎた)/現在の秋田、淳代(ぬしろ)/現在の能代、津軽、渡島(わたりしま/とのしま)/現在の北海道へ向かい現地の人と交易した記録が残っていますが、民間レベルの交易はもっと昔から行われていたとみられます。これらの主要な港は地元蝦夷の有力者が支配していました。

安倍比羅夫航路

外交上重要であった東北日本海側の港

古代日本において海外からの船は北から日本海沿いに南下する航路をとっていたと考えられています。外交及び経済上非常に重要であった日本海側の港の近くに城柵を設置して地域の安定をはかる必要がありました。まず、中央政権支配の北限であった現在の新潟県に、647年に渟足柵(ぬたりのさく)、648年に磐舟柵(いわふねのさく)を設置しました。709年に出羽柵(でわのさく)が設置され、712年には出羽国が置かれました。そして、さらに760年には秋田城が造営されます。朝廷は城柵の周辺に、柵戸と呼ばれる移民を大規模に配置し、軍事面だけでなく、農地開墾など国家の経済力の拡大を図ります。城柵の役割は多岐にわたり、反乱分子の鎮圧、地方行政だけではなく、海外からの賓客のもてなし、友好的な蝦夷の朝貢(ちょうこう)(蝦夷の首長が朝廷に貢物を差し出す事)が行われていました。

7-8世紀の東北城柵

渤海使船の受け入れ

698年ごろ渤海(ぼっかい)(靺鞨(まっかつ))という国がユーラシア大陸に興ります。この国は外交国家で朝廷と渤海は互いに遣使(外交官)を派遣していました。日本から渤海への遣使は遣渤海使(けんぼっかいし)、渤海からの外交官は渤海使(ぼっかいし)と呼ばれます。渤海使は728年から922年までの間に34回来航しています。728年にやってきた、最初の渤海使は本来24人でしたが、途中現在の北海道から津軽にかけての蝦夷とのトラブルで16名が殺害され、たった8名で出羽国に来航します。朝廷は、8名では心細いということで、送渤海客使(渤海に送り届ける使い)に安倍比羅夫の後裔の引田虫麻呂(ひけたのむしまろ)を任命し、渤海使を国に送り届けます。この後、かなりの頻度でやってくる渤海使を、宴によりもてなすのはもちろん、難破して到着した渤海使船を修復してあげたり、船員の補充をするなど手厚く待遇します。795年に出羽に来た渤海使を最後に、北からの航路(北の海みち)での来航はなくなります。9世紀に入り、渤海と唐・新羅の対立した情勢が緩和され都に近い越前などに来航するようになります(航路が変更された事によると思われる)。

渤海使船航路

相次ぐ蝦夷の反乱

城柵設置当初は、順調に見えた東北支配でしたが、地方の役人達の腐敗も顕著になっていきます。租税で徴収された物品の横流しなどが横行し、質の悪い柵戸を大量に投入した事による治安悪化、権力を削がれた蝦夷の有力者の不満の蓄積、蝦夷に対する差別など、もろもろの不満により反乱が起こります。まずは陸奥国の最高官、按察使上毛野広人(あぜちかみつけののひろと)の殺害に始まり各所で反乱が発生します。中央政府は蝦夷制圧と治安維持と同時に支配地域拡大のため、今度は太平洋側にも城柵を次々と設置していく事になります。

多賀城
多賀城

青天の霹靂 伊治の乱

780年に、太平洋側の山道付近に住む蝦夷の本拠地であった「胆沢(いさわ)」を攻略するため覚鱉城(かくべつじょう)を造営することになります。按察使紀広純(あぜちきのひろずみ)が、覚鱉城造営のため蝦夷人の軍を率いて、伊治城(これはりじょう)に入ります。この時、紀広純に従って同行していた蝦夷出身の官人である伊治公砦麻呂(これはりのあざまろ)が内応し蝦夷人の軍とともに反旗を翻します。まず、恨みがあったとされる、道嶋大楯(みちしまのおおたて)を殺害、次に紀広純を殺害します。反乱軍は、伊治城に放火、その後、多賀城を襲撃します。多賀城は陸奥国府で、武器や食料をことごとく持ち去った後、放火して逃げます。伊治城と多賀城は焼失してしまいます。この大事件は、朝廷に衝撃をもたらし、蝦夷と朝廷との本格的な戦争の始まりとなります。(覚鱉城はこの乱の影響で実際は造営されなかったのではないかとされています。)

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