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見事な桜が咲き誇る江戸城「千鳥ヶ淵」を訪れてみました。
千鳥ヶ淵は江戸城のお堀千鳥ヶ淵は江戸城内堀に当たる箇所で、現在の北の丸公園の外周にあるお堀です。最寄り駅は九段下駅ですが、神保町駅や半蔵門駅からも徒歩圏内です。元は、半蔵濠と繋がっていましたが、
平城・平山城のお城訪問記事を掲載しています。
千鳥ヶ淵は江戸城のお堀千鳥ヶ淵は江戸城内堀に当たる箇所で、現在の北の丸公園の外周にあるお堀です。最寄り駅は九段下駅ですが、神保町駅や半蔵門駅からも徒歩圏内です。元は、半蔵濠と繋がっていましたが、
香取の海最西端の城松ヶ崎城の近くにある手賀沼は、江戸時代初期まで牛久沼、印旛沼、霞ケ浦と一体となった香取の海と呼ばれた大きな内海の一部で、松ヶ崎城の際まで水が迫っていたと考えられています。調査
高崎城散策1.高崎城址のランドマークといえば、お濠端通りと大手門通りの交差点付近にある、模擬石垣と移築櫓と移築門です。模擬石垣の上に据えられた乾櫓(県指定重要文化財)は元、本丸にあった4基の櫓
一益は城の南に位置する長昌寺に上野国の諸将を招き本格的な能を披露しました。それが記録に残る群馬県での最初の能興行と言われています。しかし織田信長が本能寺の変で暗殺されたために上野国は再び情勢不安と
利権がからむ戒壇(かいだん)の設置奈良時代から平安時代は、正式に(国家資格を持つ)僧となるには戒壇で授戒する必要がありました。東大寺や国分寺などの官立寺院が僧を管理していましたが、822年以降官立
現在の二条城は歴代4代目で(初代から3代目については後述)、関ヶ原の合戦後の1603年に徳川家康が天皇に謁見する為の上洛時に滞在する宿泊施設として作られました。ここで、徳川家康が征夷大将軍として任命さ
大友氏の栄枯盛衰大友氏が大分府内の大友氏館(臼杵城から北西方面に約30キロ)から臼杵城に拠点を移したのは、1557~1561年(具体的に時期を断定する資料はない)とされています。大友氏館は地形的に
古城から新城(今の岸和田城)の場所にいつ移ったかはわかっていませんが、岸和田市のサイトによると、信濃氏の頃には、新城の二の丸の位置に城があったとあり、当時の主曲輪(現在の二の丸)には海が間近に迫ってい
なぜ、名古屋城ができたのか名古屋城の起源は16世紀の前半、今川義元の父、今川氏親が尾張制圧の足がかりとするため築いた「柳ノ丸」という城です。この「柳ノ丸」の城主は今川氏豊(今川氏親の子か?)で
徳川家康のお城として有名な浜松城ですが、その歴史は室町時代まで遡ります。曳馬城時代の浜松城浜松城の前身である曳馬城(ひくまじょう)は、室町時代末期ー戦国時代の初めの築城とされています。
箕輪城といえば、武田信玄の攻撃をたびたび跳ね返した名君長野業正(ながのなりまさ)の城として有名です。業正の死後、長野氏は武田氏に敗北し、箕輪城は、武田氏の支配下となります。武田氏時代、真田信繁
小田原城といえば、巨大な総構えですよね!と、言うことで、今回の小田原城は、最近、リニューアルオープンした天守閣に脇目も振らず、総構えの外周を巡ってみることにしました。さらっと小田原城の歴史