当時の落首で「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほど名城となります。(まぁ、石田三成をディスってる訳ですけどね、、、)
1600年関ケ原の合戦時、佐和山城を守っていたのは父の正継、兄の正澄で東軍の猛攻に善戦しますが、城内に裏切りが発生し落城してしまいます。城に籠っていた父の正継、兄の正澄をはじめとする一族は、戦死あるいは自害しました。
関ケ原の後、井伊直政が軍功により近江18万石で入封し、佐和山城に入城しましたが、その後、新しく築かれた湖畔の彦根城の築城が開始されたのと同時期に佐和山城は廃城となり、徹底的に破壊されてしまいます。
佐和山城へ
彦根駅の観光案内所で、駅から徒歩20分のところにある龍潭寺からの登城を案内していただいたので、龍潭寺側(搦手)から登りました。今回の登城ルートを写真で紹介していきます。
井伊氏の菩提寺で、井伊直正が佐和山藩(後の彦根藩)に入封されてきた時に、本拠地であった遠江の龍潭寺から分寺し五世昊天禅師を招いて建立した寺です。小さなお寺ですが古い襖絵や昊天と小堀遠州が設計した庭など龍潭寺創建当時の歴史を身近に見ることができます。時間のある方は拝観(拝観料400円)されることをおすすめします。
龍潭寺の庭と墓地を抜けると、佐和山城の登城路となります。ここから、ちょっとした登山となります。距離はそんなにありませんが、登りは結構急です。 龍潭寺から登ると、まず西の丸の下段曲輪に到着します。ここには謎の穴があります。写真だとわかりにくいですが、肉眼だと結構大きな穴が目に入ります。現地の看板の説明でも用途は不明だそうで、あたりには瓦辺が散乱していたそうです。なんでしょうね~西の丸は三段に区切られています、写真は中段と上段の段差です。結構な段差となっています。
西の丸の横には複数の竪堀があります。西の丸の3段曲輪を登りきると、本丸へ到着します。ここに佐和山城の石碑がありました。
佐和山城本丸はあまり広くありませんでした。現地の看板によると、破壊された虎口跡の痕跡があるようですが、現地ではちょっと確認できませんでした。 本丸の下に回り込むと、破壊を免れた現存の石垣を見ることができます。天守台の隅石垣と考えられているようです。 本丸から南へ下ると特に名称がついていない曲輪が登場します。隣に千貫井があります。 草ボーボーで分かりにくいですが、千貫井と呼ばれる井戸跡です。 もと来た道を戻り、また坂道を登って、石田三成屋敷跡の石碑の場所へ来てみました。この情報だけだと、屋敷の規模が全くわかりませんね。佐和山城まとめ
佐和山城は徹底的に破壊されたということですが、曲輪や堀など結構遺構が残っているなという印象でした、あと佐和山城縄張り図にある通り、佐和山城の東側には大手門跡や土塁があるようですが、今回の訪問では行けていません。なかなかの強行軍でないと全部回るのは厳しいですね、再訪の際は、ぜひ見逃した箇所をじっくり見て周りたいです。
出典
- 滋賀県教育委員会「埋蔵文化財活用ブックレット5-佐和山城跡」
- 南條範夫・奈良本辰也(1997)『日本の名城・古城辞典』
- 佐和山城- Wikipedia
- 彦根城 – Wikipedia