名胡桃城の袖曲輪を下から見上げたところ
群馬県みなかみ町にある名胡桃城(なぐるみ城)は戦国末期に真田昌幸によって築城されて10年間山城として機能しました。武田勝頼の命でここを拠点に沼田城を攻略する足掛かりとしたのですが、その後この名胡桃城、実は地味ながら豊臣秀吉が全国統一を果たすキー的な役割を果たすお城となります。
名胡桃城の歴史は戦国の攻防戦の歴史
名胡桃城裏手から。左が本曲輪、奥が般若曲輪
名胡桃城は元は沼田一族の名胡桃氏の館があり(般若曲輪辺り)、三国峠、清水峠、鳥居峠から近いため、上杉氏、北条氏、武田氏など近隣の戦国武将達はこの地をめぐり攻防戦を繰り広げていました。真田昌幸の働きにより名胡桃城と沼田城を手に入れた武田勝頼は程なく倒され、後の権力者豊臣秀吉の配下に入った真田氏によって継続的に統治されていました。
秀吉時代の名胡桃城はキー城であった
名胡桃城 本曲輪
天下を手中に収めようとしていた秀吉が「関東奥惣無事令」を出します。要するに、「俺に無断で戦したらしばくからな!」というお達しです。このおふれと共に、まだ従わない大名達に秀吉の元に出仕するように求めます。秀吉も全部の大名と戦をしていたらたまりませんから、出来るだけ穏便に済ませたいと思っていたのでしょう。関東の北条氏は出仕する代わりに利根、吾妻地域の支配権を要求、これを受け真田昌幸は先祖の墓があるので名胡桃城は渡せませんと応えたと言われます。秀吉は名胡桃城のある利根川の西側を真田領、沼田城のある東側を北条領と定めます。ところが、北条側の沼田城代(城主の代わりに城を管理する人)猪俣邦憲が名胡桃城を不法に占拠し、これがきっかけとなり秀吉の北条討伐に発展します。関東を支配する北条氏は秀吉により滅亡します。豊臣秀吉が天下統一を果たし戦国時代は終わります。
名胡桃城を選んだ真田昌幸の真意は?
名胡桃城 本曲輪を下から見上げる。
関東の重要拠点であった、名胡桃城と沼田城ですが、そもそも沼田城を攻略する為に築かれたという時点で名胡桃城の方が、重要度が低そうに感じられます。北条氏との交渉の際、真田昌幸はなぜ名胡桃城の方を選んだのか?という疑問が湧いてきます。祖先のお墓があるだけで、真田昌幸レベルの知将が選ぶかねぇ??もしかしたら、最初から北条氏に名胡桃城を攻めさせる策略だったのか?いやいや、たまたまかもしれないよ!など一人で楽しく妄想を繰り広げる事ができるお城です。
名胡桃城までのアクセスは意外と楽
名胡桃城地図
名胡桃城は後閑駅から徒歩40分。一般的にはアクセスが悪いですが、城彩で取り上げているマニアックな山城達の中では普通の部類ですねー。駅からは傾斜もほとんどなく楽ちんな道のりでした。Googleマップに連れて行ってもらったルートはなぜか搦め手からの攻略ルート。地形がよく見えるオススメルートでした。名胡桃城は曲輪を直線的に配置している連郭式縄張りでこの配置がよく見えるルートがこの搦め手ルートです。来年の大河ドラマに向けて絶賛整備工事中!なんと、見学できませんでしたー!2016年1月からは普通に入れます。
2015年12月25日更新
12月29日に一般公開を再開するそうです!
大河ドラマ前に復元整備完了 みなかみ・名胡桃城址