伝説すぎて真偽は定かで無い井伊氏初代の出生
井伊氏初代の藤原共保出生の井戸というのが、井伊谷城の南麓、龍潭寺の近くにあります。共保の出生については諸説あり、それぞれ、さもありなんという内容となっています。伝説その1
寛弘七年正月元日、八満宮の井戸の側に捨てられていた赤子を八幡山地蔵院の和尚(八幡宮の神官という説もあります)が拾って育て、その子が7歳の時に志津城主藤原備中守共資の養子となり、藤原共資の娘と結婚して藤原共保を名乗った。
伝説その2
寛弘年間(1004〜1011)の元旦、藤原共資が渭伊神社へ参拝した折に、井戸の側に赤子を見つけ、顔立ちが良いので我が子とし、後に娘と結婚させた。
伝説その3
延喜年間(901~923)に当地に荘司として赴任した天日槍命(あまのひほこのみこと)三十二代三宅好用(三宅の家紋は橘)がこの井戸の側に居を構えました。その三代目の井端谷篤茂(いはたやあつしげ)の娘が藤原共資に嫁いで、共保を生んだ。
そしてその藤原共保が井伊谷に入り、井伊氏を名乗ったとされています。
波乱に満ちた井伊氏の歴史
井伊谷城の南麓は、先に述べた通り市街地に飲み込まれてほぼ遺構が見られませんが、戦国時代の井伊氏を忍ばせる井殿の塚が残っています。 南北朝時代には後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁して北朝方と戦います。井伊谷城には宗良親王の御所があったとされます。しかし、暦応3年に北朝方の高師泰・仁木義長に攻め落とされます。戦国時代には、今川氏親に反旗を翻し戦いますが、今川方の朝比奈泰以に攻め落とされます。井伊家家老小野氏の謀略
この後、井伊氏は今川氏の配下に下ります。井伊家の家老であった小野氏は井伊家の内情を今川氏に伝えるスパイ的な役割を果たしていたと考えられています。その小野政直の讒言によって武田家との内応を疑われた、井伊直満と直義は1544年に今川氏によって処刑されます。井伊直満の息子であり直虎の許嫁であった亀之丞(後の直親)は命を狙われたため出奔し、1555年になるまで井伊谷を離れます。 1560年桶狭間の戦いで今川方に従軍した井伊氏22代井伊直盛が闘死します。その後、家督を継いだ直親は小野政直の息子・小野政次(道好)の讒言により謀反の疑いをかけられ、今川家の重臣・朝比奈泰朝に討たれます。(また朝比奈か!?)この後、井伊谷城は小野氏に専横されますが、徳川家康の助力により井伊氏が井伊谷城に復帰します。登りやすく整備された井伊谷城と周辺地域
井伊谷城は、中世山城の中ではあまり高くなく訪問は楽な部類ではありますが、山歩きに慣れていない人にとっては、少しきついかもしれません。本丸までの途中には、横曲輪に休憩所が設けられていて休憩ができるようになっています。本丸からは本城にあたる三岳城が望めます。