忍城(おしじょう)は室町時代に沼田氏によって築城されたと伝わります。利根川と荒川の扇状地にあり、水堀と沼地を駆使した天然の要害に守られた難攻不落のお城です。現在は、本丸跡に御三階櫓が再建され、水堀と沼地の一部が水城公園になっています。
忍城は攻撃されても、なんだかんだで落城していない
扇谷上杉氏に攻められる
文明10年(1478年)頃、成田正等らが土地の支配者であった忍一族を滅ぼし、忍城を築城します。忍一族は扇谷上杉家に従属していたので、忍城に扇谷上杉が攻め込みますが、太田道灌の仲裁で和解します。
上杉謙信に攻められる
永禄2年(1559年)上杉謙信が勢力を関東に伸ばし始めます。成田氏は謙信に従属しますが、後に上杉から離反します。天正2年(1574年)に裏切りに怒った上杉謙信が忍城を攻撃しますが、忍城は持ちこたえます。
史上最大級だった忍城の水攻め?
防御の要であった沼地という立地を逆手にとって攻撃するのが水攻めです。天正18年(1590年)豊臣秀吉は北条討伐を決定します。当時北条配下であった成田氏の忍城も攻撃を受けます。総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸、信繁らが攻撃に加わりました。三成は忍城の周りに大きな堤を建設し、水攻めを行いますがついに落城せず、主家であった北条氏が降伏したことで、忍城も開城します。ということになっていますが、もしかしたら水攻めは行われなかったかもしれないという衝撃の説もあるようです。一次史料(当時の秀吉や三成などが書いた手紙など)には、堤工事が行われた事は書かれていますが、堤の完成に関する記述も、水が流し込まれた記述も確認できないそうです。堤が決壊したというエピソードが残りますが、これは後世の創作である可能性が高いとされています。
三成が築いた堤がちょっと残っているので、見に行ってきたよ。
石田堤史跡公園が忍城から5キロほどの距離にあります。バスを乗り継いで行けなくもないですが、めんどくさいので、ものづくり大学入口でバスを降りて、そこから2キロほど歩いて行ってみました。石田堤史跡公園は小さいながら、よく整備されています。
石田堤史跡公園のすぐそばに、現存している石田堤が約280メートルあります。周りの土地から少し高い場所に今も道路が走っているんですよ!埼玉古墳群の近辺に行くと、ちょっと周りより高い場所があったりするので、そこも堤の遺跡かもしれません。石田堤史跡公園から埼玉古墳群までは徒歩30分程です。歩きやすい道路なのでおすすめです。大正2年清水雪翁の実地調査による「石田堤現存図」を今の地図に照らし合わせてみますね。堤は総長約14キロ、高さ1.8~3.6メートル、幅は基底が10.9メートルでした。すごい巨大な建造物です。
三成が陣を置いた古墳
忍城からほど近い、埼玉古墳群の中でもひときわ高い丸墓山古墳(まるはかやまこふん)に三成は陣を張りました。古墳の上からは忍城が今でもよく見えますが、当時はほとんど平屋で田畑だったでしょうから、お城は今よりもっと丸見え!だったに違いありません。