秀吉が天下統一を果たした後、次に手を伸ばしたのが大陸でした。朝鮮半島への前線基地として築城した超巨大なお城だった名護屋城。縄張り(設計)は黒田官兵衛で、普請は九州大名に担当させ、超高速の1年弱で完成させます。
絢爛豪華な名護屋城の周りには、全国の大名たちの陣が作られました。周囲には城下町が現れ、最高10万人の人が住まう巨大都市になりました。秀吉の死とともに朝鮮出兵は中止され、それとともに廃城になったと考えられています。
名護屋城半径3キロ圏内に密集していた118ヶ所の陣跡
名護屋城周辺には無数の陣跡が存在します。ほどんどの陣に遺構が残っていませんが、特別史跡に指定され遺構が残っている陣跡が23ヶ所あります。(範囲が広すぎて発掘調査が追いついていない?)
生駒親正陣跡、上杉景勝陣跡、片桐且元陣跡、加藤清正陣跡、加藤嘉明陣跡、木下利房陣跡、木下延俊陣跡、木村重隆陣跡、九鬼嘉隆陣跡、黒田長政陣跡、小西行長陣跡、島津義弘陣跡、伊達政宗陣跡、徳川家康陣跡、徳川家康別陣、豊臣秀保陣跡、鍋島直茂陣跡、長谷川秀一陣跡、福島正則陣跡、古田織部陣跡、堀秀治陣跡、前田利家陣跡、毛利秀頼陣跡
陣所と聞くと戦さ場の臨時施設という印象を受けますが、大大名豊臣秀保、徳川家康、前田利家クラスの陣は推定域5万㎡(東京ドーム約1個分)以上に及び、各大名個性的な嗜好を凝らしていました。
国衆クラスはシェア陣所?
太閤記に肥前名護屋の常駐する人たちとして「七百人 真田源五郎父子(昌幸、信之)」が記されています。真田クラスで七百人の兵士を用立てるの結構大変そうですね。そして、「御馬廻組」の中に真田源次(信繁)が記されていました。昌幸と信之は陣所に、信繁は名護屋城のどこかにいたんでしょうね。ちなみに、名護屋城記には真田陣所として、「中尾」「赤松」が記されていたので、複数の陣所があった可能性があるそうです。
そして注意しなければならないのは、地図によって陣所の持ち主の名前がちょいちょい違うということです。無料で配布されている「名護屋城跡陣跡位置図」と名護屋博物館で販売されている「発掘された大名陣跡」では細かな陣所が違います。そして、Google Mapにも陣所が表示されますが、これはびっくりするくらい違う表記をする場合があります。下のGoogle Mapに上杉景勝陣跡って表示されてますが、これも嘘です。
ここは「名護屋城跡陣跡位置図」によると、真田陣力先部と書いてある場所です。現地に真田氏の陣所であったという看板もありますが、「発掘された大名陣跡」の地図だと不明になっています。まぁ、未だによくわかってないということでしょうね。
PDF:名護屋城と陣跡めぐりパンフレット名護屋城跡陣跡位置図より
名護屋城は外交施設としての側面も
戦争中の明から遊撃軍の将軍と講和使節 沈惟敬(チェンウェイチン)が滞在し、接待した施設があったとされる曲輪です。船からみる金箔瓦の名護屋城は使節の度肝を抜く城塞だったことでしょうね。この沈惟敬の来日により一時講和がなりますが、欺瞞外交が露呈して再度開戦となりました。沈惟敬は明に帰国後、欺瞞外交を咎められ公開処刑されます。
人為的に破壊された名護屋城
関ヶ原の後、唐津の新しい領主となった寺沢広高によって、解体され、唐津城建設の材料として使用しました。石垣は、一国一城令を受けての破壊とも、一揆で利用されないように破壊とも、幕府の明・朝鮮との関係改善のためとも言われていて、破壊の時期と理由は明確にはわかっていません。
もちろん、名護屋城や陣所を訪れる前に「名護屋城博物館」へ
博物館では、秀吉到来以前からの鎮西の歴史がわかりやすくビジュアル化されています。そして、ここで名護屋城VRのタブレットを借りて、名護屋城へ行きましょう。石垣や天守閣を始めとする建造物を見ることができます。