ユニークな遺構が残る徳丹城
平安時代初期(812年頃)に、 岩手県盛岡市あった志波城が雫石川の氾濫により損壊したため、12キロほど北上した北上川の自然堤防に徳丹城が造営されました。当時は(というか江戸時代まで)、川や運河が主な荷物の運搬手段でしたので、城柵の中に河川を引き入れる設計をしていましたが、志波城での水害の経験からか、徳丹城の内部に引かれた河川は無く、城柵の東側に水上川から引き入れられた運河と船溜まりの遺跡が見つかっています。徳丹城造営時にはすでに朝廷の蝦夷討伐プロジェクトが終わった後でしたので、限られた予算の中造られたとみられています。
徳丹城完成までの仮の役所「先行官衙」跡
徳丹城の政庁跡の東側に徳丹城の遺跡と重なる形で見つかった平行四辺形の遺跡があります。ここは、水上川から引いた運河の荷上場の近くであり、徳丹城造営の建築事務所であったと考えられますが、内部の建物跡の様子から政庁機能を兼ね備えていた事がわかっています。「建築事務所」兼「役所」であったため「先行官衙(せんこうかんが)」と呼ばれています。
注目すべきは、日本で唯一現存出土した木製冑!
そして、徳丹城から出土した貴重な出土物といえば、木製の冑です。記録から存在は知られていましたが、腐敗しやすい木製の冑は徳丹城以外の遺跡からは見つかっていません。平和になった後、武具は不要となったのか水桶に転用され井戸で使用されていたため、水に浸かって保存されていたのですね。矢巾町歴史民俗資料館にレプリカが展示されています。
冑と同時に井戸枠板に転用された琴の天板も出土しています。
というか、文室綿麻呂って誰?
徳丹城を造営したのは時の征夷将軍「文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)」ですが、知名度は低いですよね。この人、坂上田村麻呂の腹心の部下で、体調不良で前線から退いた田村麻呂の後任として田村麻呂直々に指名された人です。今は「わたまろくん」として現世に降臨しているようなので、名前と顔を覚えておいてあげてくださいね!
徳丹城の構造
徳丹城の外郭は1辺約350mのほぼ正方形で、現在徳田小学校があるあたりが北辺にあたります。北辺は築地土塀が巡らせてありますが、湿度の高いエリアは丸太材列がめぐらせてありました。中央には約80m四方の政庁(中心的な役割の建物のある場所)がありました。東西南北の辺の真ん中にそれぞれ門があり、櫓が70m間隔が設置されていました。
南門があった場所には現在徳田神社が建っています。
矢巾町歴史民俗資料館
徳丹城だけでなく矢巾町の歴史や考古学資料の展示などされています。
岩手県紫波郡矢巾町大字西徳田第3地割188-2
http://www.town.yahaba.iwate.jp/siryoukann/index.htm
あとがき
徳丹城跡はJR矢幅駅から徒歩約30分ほどでした。途中雨に降られながらびちょびちょになって、矢巾町歴史民俗資料館に到着しました。あまり訪問者が訪れないのか最初『何しに来たの?』的な雰囲気でしたが、びちょびちょの私にストーブいっぱい焚いて下さり、靴とか乾かさせてもらいました。優しい~!
資料館には遺物やレプリカなどが展示されていましたが、当時の様子をイメージできるイラストなどがもっとあると、より分かりやすかったかなと思いますね。そして徳丹城の実物を見に外へ。徳丹城は志波城や多賀城と比べると半分以下の大きさなのですが、それでも実際歩いて回るとかなり広いです。要所要所に説明の看板がありましたが、手元に地図がないと何処に何があるのやらわかりにくいです。政庁跡や徳田神社をご覧になりたい方は、奥州街道の対岸へ歩道橋を渡っていきましょう。徳田小学校のグラウンドに政庁跡の柱が復元してあります。空気も景色も綺麗でそれだけでも楽しい散策なのですが、もう少し予備知識を入れてから訪問したほうが楽しめたかなとも思います。次回は運河跡のほうまで足を延ばしてみたいと思います。