平安時代のミステリーゾーン東北地方の前線基地だった胆沢城
奈良時代から平安時代の日本では、京都、奈良から離れて中央政権の力が及ばない関東以北は蝦夷(エミシのちにエゾ)と呼ばれていました。エゾというと、北海道とアイヌ民族のイメージですが、未攻略の土地に対しての呼称だったようで、関東も未制圧の時代は蝦夷とされていました。平安時代の桓武天皇の時代はこの未攻略ゾーン蝦夷地域の侵略戦争が激化していた時代で、その最前線にあたる地域に城柵といわれる前線基地兼お役所施設が建てられていきます。城という漢字が使われる場合と、柵という漢字が使われる事があり、どちらも「き」と読んでいました。「胆沢城/胆沢柵」の場合は、「いさわのき」と読んでいました。この当時の城柵はお城と呼ぶには防御力はかなり弱く行政施設という性格が強い鎮守府でした。
平安時代の2大ヒーロー坂上田村麻呂とアテルイ
坂上田村麻呂は後世の創作もあいまってヒーローと化した大昔の征夷大将軍です。この頃から400年後くらいの征夷大将軍になる源頼朝とは大違いで、当時の征夷大将軍は切り込み隊隊長くらいの権力イメージです。(まぁ、制圧した現地の政治権限は与えられていたようですが、なにせ辺境でよくわからないので、現地の実情と政治方針が決まるまで任せたぞ!程度かと。)坂上田村麻呂が胆沢城周辺の地域の討伐にやってきて見事勝利したとされていますが、当時坂上田村麻呂は4人いた副隊長の一人に過ぎません。まぁ、その討伐軍の中で後に最も出世したので名前が使われたんでしょうね。そして当時、胆沢城周辺の権力者だったのがアテルイ。(もののけ姫のあしたかはアテルイの末裔という設定だとか。)アテルイは戦略家で最初に討伐にやってきた中央政府軍を少数の兵士数で撃退していますが、本腰入れて再度やってきた政府軍には抵抗できず降伏し、そのまま大阪の河内まで送られて処刑されてしまいます。その後、中央政権は勢力を北上させていき胆沢城から50キロほど北上した辺りに建てられた徳丹城を最後に蝦夷討伐は終わりを向かえます。
胆沢城へ行く前に必ず行こう「奥州市埋蔵文化財調査センター」
歴史の表舞台には立つ事がないためあまり知られていない古代東北の歴史を展示品や映像で詳しく知る事ができる「奥州市埋蔵文化財調査センター」。上映されている映像は古くて画質も悪くなっていますがかなり面白いです。エミシの食生活や生活について、中央政権が東北へ侵攻してきた歴史などがわかりやすく説明されています。胆沢城跡へ行く前にぜひ立ち寄ってもらいたいですね。入場料200円(大人)
http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/newpage3.htm
鎮守府八幡宮は今も残る胆沢城の名残
胆沢城の北東にあたる土地には今も鎮守府八幡宮があります。城の守りとして建築されたであろう神社が今もあるというのは非常に感慨深いですね。鳥居をくぐると急に空気がかわるような爽やかな雰囲気に満たされた神社です。御朱印もいただけました。ヤッタネ!
胆沢城のまとめ
仙台の多賀城(土台の復元、ボランティアガイド、ARアプリ)、盛岡の志波城(建造物の復元)、岩手県紫波郡矢巾町の徳丹城(柱のみ復元)とともに東北が中央政権の勢力下に入っていく上での重要拠点でした。征夷大将軍の「征夷」は蝦夷を征する大将軍って意味だったのか!とか、アテルイを妄想するときはアシタカのビジュアルでお願いします!とか楽しいひと時が過ごせるお城です。現在は、近隣にある他の城柵と比べ復元レベルは最小限ですが、砂利と雑草と建造物を示す土塁のみの遺跡は想像力全開での脳内復元が存分に楽しめるマニア向けのお城です。
胆沢城へのアクセス
水沢駅から岩手県交通のバス「国道北線」県南免許センター行きに乗車して、八幡神社前下車です。文化財調査センターに行く場合は八幡で降りた方がちょっと近いです。時刻表はこちら。本数は非常に少ないのでご注意ですよ!
http://www.iwatekenkotsu.co.jp/oshuu.html