古代日本において、日本と海外の玄関口は日本海側でした。遣唐使船が有名ですが、唐よりも、もっと日本よりに渤海(ぼっかい)という外交国家があり、日本と密に交易を行なっていました。当時の船は日本海を直進する性能はなく、大陸や島伝いの航路を取るしかなく、渤海から船出した船は、南側の航路は新羅と情勢不安により使えない期間は、一旦北上し現在の北海道、津軽などの港を経由して秋田にやって来ていました。
大和朝廷はまだ支配下になかったエミシの土地(現在の東北地域)に勢力を伸ばすため、城柵を築いていきました。秋田城は、760年に設置され国府(地方行政府)が置かれていましたが、秋田城付近では度重なるエミシの反乱が起きていて、804年に河辺府に国府が移されます。秋田城は軍事機能を強化して11世紀頃まで存続し続けました。
硬軟織り交ぜたエミシ支配
戸籍の管理や税の徴収などの政庁としての役割のほかに、大和朝廷に対して友好的なエミシを饗応したり、兵士(鎮兵)を常駐させ、支配が完全でないエミシを軍事的に制圧する役割をになっていました。
鵜ノ木地区
鵜ノ木地区には、大型建物群が発見されていて、ここには寺院があったと考えられています。
外交の窓口

そして、日本海側という立地から、秋田城の古代の水洗トイレからは当時日本人が食べていなかった豚食の寄生虫の卵が発見されているため、渤海国からの使節団受け入れてと考えられています。

秋田城まとめ
秋田城は広大な敷地に復元建造物や、看板が整備されていてとても見ごたえがあります。まっ平でなく、土地に緩やかな起伏があり、とても綺麗な公園だったとの印象があります。訪問時にはまだなかった秋田城跡歴史資料館も2016年に開館しています。次に訪れた時には、資料館にも足を運びたいものですね。