上田城は1583年に真田昌幸が築城したとされていますが、資金だけでなく物資や人材を、当時同盟関係にあった徳川家康に出させています。上杉方の城、虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)がすぐそこに迫る場所である、千曲川の分流「尼が淵(あまがふち)」の河岸段丘に建設し、上杉の信濃侵攻の抑えとしての拠点としようとしていました。ところが、徳川は北条と同盟関係を結び、その条件として真田家の沼田領地を譲る約束を勝手にしてしまいます。これに反発した昌幸が徳川との同盟を反故にし、上杉と同盟を結び次男の信繁(幸村)を人質として上杉方へ送ります。家康がこれに怒り、まだ建設途中だった上田城を攻めたのが「第一次上田合戦」と呼ばれる戦です。未完成の城と少ない手勢で徳川の大軍を撃破したことで、真田昌幸はその武勇を知らしめる事になります。
虚空蔵山城から上田城の間約10kmって近っ!!(ブラタモリで虚空蔵山城側のお堀が異常にでかいって言ってましたね。百間堀。)
関ヶ原の合戦の前哨戦?第二次上田合戦
関ヶ原の前に徳川家康の息子秀忠の部隊が上田城に戦を仕掛けます(というか仕掛けさせられたというか、、、)。これが「第二次上田合戦」です。秀忠は、お父さんと同じように、昌幸にボロ負けしてしまします。親子二代に渡って上田城の昌幸に煮え湯を飲まされた徳川氏は、関ヶ原の合戦後、昌幸と信繁を九度山へ幽閉、上田城を破却します。真田昌幸時代の上田城の面影がどこに残るのかは定かではありませんが、掘に関しては結構真田氏時代のものを利用していると推定される箇所があるようです。
尼が淵からみた上田城
今駐車場がある広大な敷地は築城当時は川の底だった場所です。尼が淵から城の出入りが出来る船着き場もあったであろうと推定されています。川の流れが崖を削るのを防ぐために江戸時代に石垣が作られましたが、築城当時は石垣は無かったと思われます。
川があったらこんな感じ?みたいな画像を作ってみたよ☆あと、石垣も消してみたよ。
陸上トラックは巨大なお掘の跡
上田城は二度目の訪問になりますが、今回は外堀や地形をメインで見て回りました。(前回の記事はこちら)上杉の虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)方面に面した百間堀は真田氏時代と変わらないのではないかと推定されているようです。
掘の跡地は現在陸上トラックと野球場として利用されていて、土塁の傾斜には観客席が設置されています。地形をそのまま見る事ができるので非常に楽しいです。現在の児童遊園の外側にはお掘の名残か、小川が流れています。
百間堀の樋
二の丸北虎口の土橋の下にはもともと、掘の水を通す木製の樋が埋めてありましたが、江戸時代に腐らないように石の樋に作り替えられました。
二の丸側の掘には鉄道が走っていた。
このお掘にはその昔線路があったそうで、お城の土橋はそのために今の橋に架け替えられたそうです。
本丸土塁の隅欠(すみおとし)
本丸の内堀には鬼門の方角にあたる角を削っている隅欠(すみおとし)があります。
北国街道柳町は情緒あふれる町並み
旅籠や呉服屋などの商家が軒を連ねた町で、いまでも杉玉のある酒屋や古道具屋などの情緒あふれる建造物があります。
上田藩主の館跡
現在は長野県立上田高等学校となっていますが、土塁とお掘がそのまま残っていてステキ。こんな高校に通いたいです。
上田城まとめ
2015年の秋頃に上田城を再訪しました。翌年の大河ドラマを控え、城内はいたるところ工事中で真田神社などは立派な社務所に変身していました。昔は、真田幸村愛が暴走した案内板があったのですが、無くなっていました。やっぱりおかしいってみんな思ってたのね。今は健全な案内板になっていて良かったです。外堀など地形が綺麗に残っていて時間があれば付近を散策しても面白いですよ。