大阪のシンボル大阪城は大阪の大都心部に今も巨大なお堀とともに壮大な石垣がめぐる日本有数のお城です。恐らく江戸城の次に広大なお城跡公園だと思います。江戸城と違って、こちらは中に重要な人が住んでいる訳では無いので、外周ではなく内部をジョギングする人が沢山居ます。
大阪城の見所はズバリ石垣!
江戸城もそうですが首都機能を備えたお城は規模に関して他の大名のお城と一線を画すると言えるでしょう。お堀の広さや石垣の高さは見ているだけで圧倒されます。大阪城といえば豊臣秀吉ですが、現在の大阪城は徳川が豊臣の大阪城の上に盛り土をして完全にカバー。土台を盛った上に秀吉より高い天守閣を建設していました。大阪に新しい支配者を印象付けるためのもの凄い普請事業です。
そのおかげで、秀吉の石垣は綺麗に地中に埋まっていて、今はその発掘が進み、今後は地下での展示が予定されています。目標5億円の募金も募っていますよ。「大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト」
江戸時代の大阪は徳川将軍の直轄地
大阪にはお殿様の印象が無いと思ったら、徳川の直轄地で江戸城の近所に城代(城主の代わりにお城の管理をする責任者)のお屋敷が有りました。経済的にも重要な拠点だったこともありますが、領主は秀吉という大阪に漂う空気も、徳川幕府にとっては脅威だったのかもしれませんね。
そして、タイトルのハイブリッド天守閣ってなによ?
大阪城の天守閣は、私が勝手にハイブリッド天守閣と呼んでいます。下層階が徳川天守閣で、上層階が秀吉天守閣という、類い稀な復元天守閣です。(秀吉天守閣はひょろっと長細くて、徳川天守閣はずんぐりむっくりなので、デザインの観点からは絶妙の融合だと、個人的には思います。)ですが、そんな城は実在しないという点では、模擬天守と言ってもいいかもしれません。江戸時代の徳川天守閣は1665年落雷によって焼失しその後は天守台のみがありました。ところが、昭和初期、当時軍用地だった大阪城の跡地に天守閣再建の話が浮上し、昭和6年に現在のハイブリッド天守閣が建設されました。今の感覚で行くと突っ込みどころ満載の天守閣ですが、当時はまるっと全部徳川普請という事は知られていなくて、天守台は豊臣時代のものだと考えられていました。
大阪城は豊臣秀吉のお城でしょ?というイメージが現在の天守閣デザインになってしまった原因のようです。とはいえ、なんで混ぜたんだ?という話ですよね。「豊臣の天守閣を作ろうと思ったけど土台のサイズが合わない(だって徳川の天守台だし)だから、ジャストフィットの徳川天守閣を作って、上を豊臣のデザインにした?」「徳川と豊臣の両方の顔を立てた?」など色々想像できます。当時は城郭の研究はあまりされておらず、乏しい資料の中必死で作り上げたのは間違いありません。(資料は屏風絵だけとか泣けます)
あの大阪城のコンクリート天守閣って文化財!
大阪城の天守閣って、外にエレベーターが付いてるし、ハイブリッドだし、いろんな意味で、批判を受けていますが、天守台に重量があまりかからないようにする工法や、お城の内部に歴史博物館を設置した先駆けは大阪城です。日本各地にあるコンクリート製の天守閣に歴史博物館があるのは大阪城がそうしたからという事実を知ると、ちょっと感慨深いものがあります。平成9年には、「登録有形文化財」に指定されました。ここまできたら、復元ではなく大阪城3代目の天守閣として大阪に君臨していると言えるのではないでしょうか。
大阪城はパワースポットに造られている
日本各地に違う歴史の違う権力者が同じ土地に中央集権の建造物を建てる土地があります。大阪城の付近もその例外ではなく、古墳時代の巨大倉庫群の遺跡、飛鳥時代の難波宮跡、石山本願寺、秀吉の城、そしてその後の徳川氏も城を同じ位置に建築しています。時の権力者がなにかしらの理由でこの土地に権力の中心を置いてきた訳です。(おかげで遺跡が次の遺跡に破壊されてますけど、、、)やっぱり、強力なパワースポットに大阪城が建っているのは間違いなさそうでしょ?
大阪城まとめ
大阪城は上町台地にあって、古代はすぐそこまで海が来ていた場所です。高低差は今ではかなり緩和されていますが、それでも、徒歩で周りを歩いてみるとアップダウンの激しい土地だと実感することができます。この地形を利用した秀吉大阪城の総構えも今では失われてわからなくなっていますが、地形の調査などから大体の場所が特定されてきています。大坂の陣で建設された真田丸と共に、秀吉時代の大阪城の全貌が解明される日も来るかもしれませんね〜