なぜ、名古屋城ができたのか
名古屋城の起源は16世紀の前半、今川義元の父、今川氏親が尾張制圧の足がかりとするため築いた「柳ノ丸」という城です。この「柳ノ丸」の城主は今川氏豊(今川氏親の子か?)で、織田信長の父、織田信秀は氏豊と懇意になり、信頼させたところで、今川氏豊をだまし討ちにして城を奪います(1532年)。信秀はこの城を「那古野城」と改名し、しばらくの間居城としました。嫡男織田信長はこの那古野城で生まれたという説もあります。(勝幡城という説もあり)
那古野城は、現在の名古屋城の二ノ丸から三ノ丸あたりにあり、三ノ丸(現在は市役所・県庁がある県庁街)の発掘調査によって、清洲城と同じように、堀や溝で四角く区切られた区画に武家屋敷が立ち並んでいたことがわかっています。
信秀が1555年に清洲城に本拠を移したため、那古野城は一時廃城となります。
近代城郭名古屋城はいつ建てられたのか
戦国時代、尾張の中心は清洲に置かれていましたが、関ヶ原の合戦以後、全国の勢力図が劇的に変更され、江戸に徳川、大阪に豊臣秀頼という二つの大きな勢力が相互に睨み合うという形に変わっていました。1610年徳川家康は、清洲から名古屋に拠点を移すべく築城を決め、現在、我々が見ている近代城郭名古屋城が造られました。
当初の設計図では、天守の西側にもう一つ小天守が連結される予定でしたが、西小天守の建設が取り止められ、天守台石垣に作られていた出入り口跡も塞がれています。
明治の廃城危機を切り抜けた名古屋城
明治維新後、全国のお城は廃城令により破却されていったのですが、在日ドイツ公使の進言を受けて、名古屋城は、姫路城とともに保存されることとなります。そして、1893年に宮内省に管轄が移り、「名古屋離宮」と称されていました。西南隅櫓の鬼瓦に、菊の御紋があるのはその頃の名残です。
第二次世界大戦で消失
名古屋城は大規模に城郭が保存されていたのですが、第二次世界大戦時の1945年5月14日の空襲で本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱が消失してしまいます。あぁ、本当に悲しいことです、、、、往時の名古屋城の豪華さを垣間見ることができる復元本丸御殿
本丸御殿はそもそも、城主が生活をするための御殿ですが、名古屋城では将軍が上洛(京都へ行くこと)するときに滞在する御成専用とし、城主はニノ丸御殿に居住していました。名古屋城の本丸御殿は、京都にある二条城本丸御殿に匹敵する豪華さで、車寄(玄関)の屋根は、将軍家とそれに準ずる身分の高い大名にのみ許された唐破風(からはふ)で、屋根の金具は、黒漆と金で装飾されていました。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の三人だけです。たった3回の使用のために、こんなすごいもの維持管理していたんですね〜。将軍の権威半端ないっす!
本丸御殿の中は金ピカだ〜
やっぱ、いいよね名古屋城
名古屋城は何度訪れても、見ごたえのあるお城です。現存する石垣も立派ですし、徳川家康が大阪の豊臣に抱いていた警戒心などに思いを巡らせるのも楽しいですね。近年本丸御殿が復元されたことで、往時の名古屋城がどれだけ豪華だったのかを実際に見ることができて、また新たな楽しみ方が追加された気がします。そして、復元された金ピカ本丸御殿も、名古屋城全体の規模からするとごく一部に過ぎません。それを考えると、敷地いっぱいに建てられた建造物とか、庭園とか、本当に荘厳なお城だったんだなと思いを巡らせることができます。たまに、「名古屋城あんまり面白くなかった」という感想を聞くことがあるのですが、それは見所がわからず、単に天守閣に登っただけだからではないでしょうか。そんな人は「名古屋城観光ガイドボランティア」さんのガイドをお願いしてみましょー!きっと何倍も楽しいはずです〜。
清正さんも待ってるよ〜