秀吉系のお城だった!と驚愕してみる
武田信玄のお膝元である甲府のお城なので、武田のお城なのかと思って行ってみたら(予習してなかったw)お城に着いてみると秀吉っぽい石垣が連なっています、、、「???」と思って調べてみると、築城主は秀吉らしく武田の面影はかけらもありません。甲府駅で武田信玄の像を見ていたこともあり「武田信玄に会いに行って、秀吉に会ってしまった(いや、べつにがっかりしてないよw?)」という気分になりました。
秀吉っぽい石垣ってどんなんですか?と思われたかと思いますが、ざっくりいうと豊臣政権下の石垣は、自由闊達でダイナミックなのが特徴だと勝手に思っていますw。じゃぁ、武田の石垣は?と聞かれても私の中にデータが蓄積されていないのでよくわかりませんw
徳川と豊臣を行ったり来たりと、めまぐるしく変わる城主
まぁ、戦国時代のお城なんぞ城主がめまぐるしく変わるのは珍しくありませんが、甲府城は築城主が徳川なの?豊臣なの?という論争もあるようで、ちょっとここで簡単に説明します。この甲府城、徳川が築城主という説もありますが、1582年に徳川家康が入国するも、作業者の動員の様子も無かった事から築城は構想だおれで、実際に城を建築したのは豊臣氏の天下統一後、秀吉の甥っ子羽柴秀勝であったというのが有力な説です。個人的にも石垣を見る限り豊臣政権の築城とみて間違いないと思います。歴代城主は秀勝から加藤氏、浅野氏と移り変わり関ヶ原の合戦後は徳川家康の城となります。
江戸時代の大事件、1400両が盗まれた甲府城御金蔵事件の舞台
1734年に甲府追手御門に忍び込み、1400両(だいたい1億?)が盗み出されます。当日の見張り当番が追放されるなど処罰を受けます。事件から9年後に次郎兵衛が捕まり市中引き回しの上磷付になってしまいます。
時代の違う石垣のレイヤーが見られる、二重の石垣
天守台からの眺めは絶景
天守台からは甲府の町並みを見渡せます。天守閣があったら、もっと眺めが良いでしょうね!