古城から新城(今の岸和田城)の場所にいつ移ったかはわかっていませんが、岸和田市のサイトによると、信濃氏の頃には、新城の二の丸の位置に城があったとあり、当時の主曲輪(現在の二の丸)には海が間近に迫っていて、辺りには葦原が広がっていたようです。
紀州の抑えの岸和田城
岸和田城は、戦国時代に入り織田氏、豊臣氏の紀州攻めの拠点として活用されるようになります。織田信長は家臣を岸和田城に配置し、紀州の抑えとしました。信長の死後、実質的な後継者となった豊臣秀吉は中村氏を配置し、紀州に拠点に置く根来衆、雑賀衆、粉河衆の一揆衆の討伐を命じました。小牧長久手の戦いで、秀吉が大坂を留守にしていた時、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍約3万が押し寄せ、中村氏は8000の寡兵で迎え撃ちました。大ピンチをなぜかタコに救われ、岸和田城を守りきりました。(この伝説、気になりすぎるのであとで詳しく説明)江戸時代には、紀州藩の相互監視のため、岡部氏が入城し幕末まで岸和田城の城主を13代務めました。
岸和田城縄張りの変遷
- 信濃氏城主の頃、現在の二の丸が主曲輪で、「あぶみ堀」はこの頃の馬出しの跡だと考えられている。
- 小出氏城主の頃、城下町が建設される。城下町は町曲輪のみ(現在の本町・中町)
- 松平氏城主の頃、海岸部との境界線に石垣が築かれる。城下町が拡張される。(現在の南町、堺町、魚屋町、北町)
- 岡部氏城主の頃、外曲輪が築かれ境町が曲輪内となる。城下町が大幅に拡大される。
街曲輪のあった本町
岸和田城の海側に紀州街道が通っていて、そこも城構えの中。なんか惣構えまでいかないけど、ちょい構えみたいですね。紀州街道沿いの一角である本町は今も昔ながらの景観が保全されているエリアです。岸和田城を訪れた際はぶらぶらしてみてください。
城下町のクランク
道にも城下町ならではのクランクが各所に残っていてます。
犬走り
石垣と堀の間にある、フラットなところ。城の防御力は落ちるものの、石垣の増強のために設置されていると推測されている。ちゃんと写真撮れてて良かった。こういうのも犬走りって言うんだね〜。
蛸地蔵さんの活躍がハンパないので、詳しく説明
大昔、岸和田の地にあった、立派なお寺にお祀りされていたお地蔵さんが、この寺に乱入した賊によって海に投げ込まれました。それから何十年か後、この地に和田氏が赴任した頃、ひどい高波で城も民家も流されそうになっているところ、海から大きなタコに乗って現れた法師の格好をしたお地蔵さんが現れて海が静まりました。そのお地蔵さんをお城でお祀りする事になりました。しかし、長く続いた戦乱の世のいつ頃かに、お地蔵さんを戦火から守るためにお堀の中に埋めて隠してしまいました。そしてそのまま、忘れ去られて時が流れ、中村氏*の頃、根来衆、雑賀衆、粉河衆の大軍が城に攻めかかって、中村氏が劣勢に立たされていた時、大きなタコに乗って現れた法師の格好をしたお地蔵さんが、海から現れて、錫杖を振り回して敵兵をなぎ倒し、その上タコの大群が海から現れて墨を吹きかけると、敵兵がバタバタ倒れて、撤退していったと言います。その後、お堀から発見されたお地蔵さんを城内で大切にお祀りしていました。小出氏が城主の頃、城下の庶民もお地蔵さんを気軽にお参りできるよう、「天性寺」に祀られる事になりました。このお地蔵さん、現在も天性寺の地蔵堂に安置されています。普段は秘仏であるため非公開ですが、毎年8月23、24日にだけ一般公開されています。
*「岸和田のむかし話3 蛸地蔵」によると天正年間の松浦氏の頃とありますが、この時の城主は中村氏。
出典
岸和田城ー岸和田市ー
岸和田城 – Wikipedia
岸和田のむかし話3 蛸地蔵の話ー岸和田市ー