利権がからむ戒壇(かいだん)の設置
奈良時代から平安時代は、正式に(国家資格を持つ)僧となるには戒壇で授戒する必要がありました。東大寺や国分寺などの官立寺院が僧を管理していましたが、822年以降官立寺院でない延暦寺にも戒壇が設置されます。鴨江寺は戒壇の設置を朝廷に願い出ましたが、延暦寺の僧に妨害されて許可がおりなかったそうで、そのまま強行して無許可のまま戒壇を設置しました。そのため、遠路はるばる京から延暦寺の僧兵が攻めて来て、「鎧橋」(浜松市南区東若林町)を中心に激戦が行われます。鴨江寺の僧兵は敗戦し、延暦寺の僧兵により戒壇は破壊されました。このエピソードを見ても、寺が戒壇から受ける恩恵は相当なものだったと想像できますね。
南北朝時代には井伊氏の支城に
南北朝時代12代目井伊道政の時代に、後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて北朝軍と戦っていた時、鴨江城は井伊氏の本城を守る南の支城でした。1339年に鴨江城は北朝軍の高師泰、師冬の攻撃を受け落城します。
鴨江城は現在の鴨江幼稚園から西小学校東の高台にありました。明治の初年頃までは土塁が残っていましたが、残念ながら現在ではお城の痕跡は残っていません。現在の鴨江寺には、仁王門、成田山不動堂、観音堂、弁天堂など朱塗りの大きな門やお堂があり、きれいに整備されています。現地を歩くと、傾斜地に西小学校や住宅地が広がっています。やはり山城ほどの防御力は見込めなかったため、北朝軍の攻撃にさほど抵抗できなかったのではないかと思われます。
出典
- 浜松市立県居公民館『学びの里 祈りの丘』
- 内山真竜『遠江國風土記伝』
- 浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば』
- 遠州高野山鴨江寺ホームページ
- 戒壇 – Wikipedia