さて、NHK大河ドラマのタイトルが「真田丸」に決定したので、一挙に有名になった大阪城の出城ですが、現在は市街地に飲み込まれてしまって実際の規模もよくわからないというのが現状です。ところが、大河に決まってからというものどんどん研究が進んでいますよね?この謎につつまれた出城の姿がどんどん解き明かされてるのは、とっても楽しいですね〜!
「大坂夏の陣図屏風」・右隻(通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)- 自らも大坂の陣に参陣した福岡藩主黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた屏風絵の大作
そもそも真田丸って城なの?っていう話ですよね。この真田丸は徳川家康が、豊臣家の息の根を止めるために仕掛けた戦「大阪の陣」の時に急遽作られた出城です。大阪城はそもそも、豊臣秀吉が全国を統一した際に巨額の資金を投じて作ったお城です。色々な文献も、絵図も残っていますが、ただの出城であった真田丸に関しては、徳川勢がさんざんに打ちのめされたという事と、断片的なエピソードが地元に残っているだけで、詳しい様子は分かっていません。江戸時代に描かれた真田丸の絵図は色々あってどれが本当なのかも、よくわからないわけです。よくわからないから、色々な説が浮上する、、、それが面白い。
真田丸の定説
真田丸は大阪の陣の際に、防御が手薄だった大阪城の南側を守るべく建設された出城であった。もちろん、大阪城と出城をつなぐ補給ルートもあったのではないか。
新説
大阪城周辺の400年前の地形を調べたら、南側は高低差があって特に手薄じゃない。真田丸は標的になって南側に敵勢を集中させて、他方から反撃するという戦略のもと築かれた孤立無縁の出城だったのではないか。(一応細い土橋は描かれてる。)
平たく言うと、真田丸は徳川ホイホイ?
実際に真田丸があったとされる真田山公園の付近を歩いてみるとかなりの高低差を体感できます(真田丸の中心地は現在の)。最新の研究結果によると、400年前の高低差はもっとすごかったということなので、それは渓谷じゃない!?と思わせます。写真の左側が真田山公園を下から見たところです。もう、真田丸実物大か?!っていう感じですよね!!
真田山公園から下りる階段を見ると。すごい高低差ですよね。そんな攻めにくそうな出城をなぜ徳川軍はわざわざ攻めたのか、全然理解できませんけど、、、真田昌幸の息子の真田幸村(信繁)の事ですから、すっげー挑発した?んー、どちらにせよ心理戦だったんでしょうねー。妄想すればするほどワクワクしますねー!NHKの大河ドラマではどういう風に描かれるのかも楽しみです。
真田丸ってどこなのか?
真田丸の場所は特定されていませんが、こちらの「十三のいま昔を歩こう : 真田丸と南惣構堀(空堀)跡の場所を地形(カシミール3D)から探る」と広島市立中央図書館所蔵の「浅野文庫諸国古城之図」の「摂津 真田丸」を今の地図に照らし合わせてだいたいの場所を調べてみました。ま、昔の地形も残っていないし本当に特定できないんですけどね、、、(左図は広島市立中央図書館所蔵 摂津 真田丸)
真田山三光神社は、上の地図だと真田丸から外れてしまっていますけど、個人的な希望としては真田丸の本丸に含まれているべきところかと、、、(笑)ここには、真田の抜け穴がありますが、多分もっと前からあった遺跡なんでしょうね〜
そして、鎌八幡。大坂の陣の際地元の人が御神木に鎌突き刺してお祈りしてるのを見て、真田幸村も「じゃー俺もお祈りしとこ☆」と言って鎌をさして祈願したとかしないとか、、、ここは、真田丸本丸の中に入ってくれてよかった。
その御神木は今も境内にあります。撮影禁止なので実際に現地に行ってみてくださいね。
最新の研究をベースに作られた真田丸
真田丸のジオラマは各地を転々としているので、展示場所は都度インターネットで調べて見に行かないといけないのですが、この時はあべのハルカスの展望室に展示してありました。高低差すごいですよねー!真田山公園の写真と比べてみるとなんかそれっぽい気がします。
そして、真田幸村出丸城跡という石碑がある心眼寺行けてません!皆さんはちゃんとまわってくださいね〜!
関連リンク
- 十三のいま昔を歩こう : 真田丸と南惣構堀(空堀)跡の場所を地形(カシミール3D)から探る
- 心眼寺に幸村のお墓・大坂の陣講演会と特別展・ウォーキング
- 三光神社 真田の抜け穴の伝説
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